お坊さんたちの目新しい活動、ということでは草分け的な存在の仏教グループが京都にあって、最近に目新しい活動を始めた若い僧侶グループの方たちとも、交流されているようだ。
その古株の、草分けグループを代表するお坊さんのコメントが、2011年11月の、ある新聞に載っていた。
最初は随分叩かれたもんです。俺だったら四条河原町でお坊さんと話をしようと声をかけてみせると先輩にタンカを切って、木屋町のパブに女子大生を集めて、若いお坊さんたちと話をする場を設けてみたり…云々と語っておられたのだが、まあ、「パブ」や「女子大生」という言葉の古めかしさは20年以上前に活動を始めた時のお話なので仕方ないとしても、あまりの情けなさに、涙がこぼれそうだ。
さてさて、お話は変わって、タイやスリランカなどのテラワーダ仏教諸国では、社会の問題に対して活動しているお坊さんたちのことを、開発僧(かいほつそう)と呼ぶ。
日本仏教は駄目だ、それに引き換え、タイの仏教は…などと言った、紋切り型の日本仏教批判を展開したい訳では決してない。ただ、タイなどの活動が成功しているのは、それに携わるお坊さんたちが、正しく仏法を学び修め、仏法に基づいて行動しているからだということを、日本で目新しい活動をされている日本のお坊さんたちには、是非、知って頂きたいと思う。
もちろん、日本と違ってテラワーダ仏教諸国の国民の多くが、あらかじめブッダの教えをある程度了解しているという条件の違いはあるだろうけれど、それならばそれで、日本でも、まずは人々に、仏法をあまねく了解させるのが先決ではなかろうか。
日常生活とかけ離れた仏法を頭ごなしに説くよりも、先ずは今、社会に飛び込んで、目の前の問題を解決してあげるのが大乗仏教だなどという意見は、実際に生きた仏法を人に説いたことのないお坊さんたちの、頭の中の理屈に過ぎない。
世間的な基準での活動をいくらお坊さんが社会に対して働きかけても、それは決して抜本的な解決にはならず、次から次へと問題や苦しみが人々に押し寄せるばかりだろう。どんなに迂遠に見えても、法によって問題を根本から断ち切るのが、仏教の方法論ではなかったのか。
プラ・ユキ・ナラテボー師に教えて頂いたところによると、タイには軍人たちが非暴力と慈悲について教えを乞いに来る、高名な開発僧の方もいるそうだ。日本のお坊さんの内の、一体、何人の方が軍人に対して、慈悲や非暴力を説くことができるだろうか。仏法に対する確かな信頼がなければ、こんな活動は決してできない。
私たちはもうずいぶん長い間、テラワーダ仏教は自分の悟りだけを目指す小乗仏教で、日本の大乗仏教だけが他人や社会の幸福を願っているのだと信じ込まされてきた。最近のアジアの開発僧の動きに対してさえ、ようやく小乗仏教の方でも社会活動に目を向け出したなどとコメントしている日本のお坊さんたちの、何と多いことか。そんな寝言を繰り返している内に、眠るウサギは追い越されたのだ。
※2009年8月投稿分を改稿しました。