懺悔でリセット! | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 お山、というのは天台宗の本山、比叡山のことなのだが、3、4年前、お山の行事で、進行役を勤めておられた比較的若い中堅どころのお坊さんが、前のお座主(ざす・天台座主)がいつも仰っていたことですが、と言って、話して下さった話だ。

 「我昔所造…」(がしゃくしょぞう…)で始まるおなじみの懺悔文(さんげもん)は、「無上甚深微妙法…」で始まる開経偈(かいきょうげ)と並んで、日常の勤行時に常用される偈文(げもん)なのだが、この短い偈文さえ唱えておけば、日常生活であれ、修行のことであれ、まあ、大概どんなことにも対応できるというお話で、それを聞いた瞬間、普段、慢性的に唱えていた、このおなじみの偈文が、にわかに新鮮なものに思えて来た。

 懺悔すれば許されると言うのなら、何をやっても謝った者勝ちじゃん、と思う方もあるかも知れないが、そうではなくて、盗むとか殺すとかの大きな罪だけでなく、悲しんだり、苦しんだり、欲を出したり、後悔したり、いらいらしたり、怒ったりといった、良くない心の動きも仏教では罪だと考えていて、それを一瞬一瞬に気をつけて、気をつけて、懺悔して、リセットして行くように、仏教徒は日々、努めている訳だ。

 そう言えば、タイで上座部僧として修行中も、比丘たちが二人一組で行う、日本とは違った形の懺悔の作法があって、毎日、夕方の勤行の後に、懺悔の偈文を唱えたものだ。

 いまだ修行半ばの身なら、至らぬ心は生じて当然、だけど心配しなくても大丈夫、いつ何時であろうとも、「我昔所造…」でリセットを!



我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)  私が造るすべての罪は     

皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)      みな貪り、怒り、迷いによるもので

従身口意之所生(じゅうしんぐいししょしょう)   私の行動と言葉と心が原因です

一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)    だから今、私は、それらのすべてを懺悔します