仏教は一般大衆のために | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 先日、京都のファストフード店から私服のお坊さんらしき方たちが何人か出て来られて、こちらの顔を見て驚いたような顔をなさったのだが、お坊さんというのは似たようなタイプが多いので、どこかで出会ったお坊さんだったかな? とお互いに勘違いしたりするのは、よくあることだ。

 ついでに言うと、お坊さん同士だと、たとえ私服を着ていても、相手が単なる丸刈り頭の一般人でないことはすぐに分かるものだ。で、何となく、ぞろぞろと出て来られた私服のお坊さんたちを見て、「連中」という言葉が頭に浮かんだのだが、お坊さんなんだから、「連中」ではなく、「大衆」と呼ぶべきかな? などと、ふと空想した。

 「連中」は歌舞音曲に携わる一座の人を指す言葉でもあったが、「大衆」も本来は、一般の僧侶方を指す言葉で、それが転じて「民衆」を指す言葉になったことは、割とよく知られている。

 さて、いろんな方の仏教ブログに、大乗仏教は出家と在家の区別が明確でない仏教である、などと書いてあることが多いのだが、出家在家の区別が明確ではないのは、あくまで日本仏教だけのことであって、チベットでも台湾でも韓国でも、日本以外の大乗仏教僧は厳しく戒律を守る、歴とした出家者だ。

 先ず、日本の仏教しか見たことがない人が大乗仏教について考えると、そういう風に勘違いしがちだ。さらに言えば、出家して修行する者だけが悟れるという風に驕った「小乗仏教」に対して、それに反発する改革派の在家仏教徒集団が大乗仏教を興したという、歴史的事実かどうか分からない学説を、特に日本の仏教徒の中には不動のものとして信じている人が多いので、こうした意見が罷り通りがちだということもある。

 確かに在家のままでだって十分に正しい修行はできる。仏教は出家・在家に関わらず、すべての人類に対して開かれている。では、なぜ仏教の発生以来、出家者や出家することが尊ばれて来たかと言えば、単純に出家して隔離された状況で修行に専念した方が効率が良いという、ただその一事に尽きる。

 そうした諸々を踏まえた上でなら、みうらじゅんと安斎さんの「勝手に観光協会」奈良編の「ブッツ 仏像」という歌にある、「出家・在家は 関係なしさ」という歌詞だって、全くその通りだと私も思います…。