仏教と老荘思想…玄侑宗久著「荘子と遊ぶ―禅的思考の源流へ」について | アジアのお坊さん 番外編

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 玄侑宗久師に関しては、何ら恨みもつらみもないのだけれど、先日、イオングループの葬祭業参入に関する玄侑宗久師のコメントについて書かせて頂いたものだから、普段なら気にも留めない師の新著、創刊したてのちくま選書の1冊である「荘子と遊ぶ―禅的思考の源流へ」を手にしてしまったのが、いけなかった。

 つまらない。実につまらない。そう言えば昔、タイで修行中、インドでチベット密教を学んでいる真言宗のお坊さんが訪ねて来た時に、仏教や修行について色々と話し合ったことがある。その時、私が荘子が好きだという話をしたら、そのお坊さんは、修行が進んでいない時は、老子や荘子がいいと思うんですよねえ、と仰った。

 何を生意気な、と思ったものだが、彼も若く、私も若かった。今思えば、修行遍歴の中で、一時は老荘がいいなと思ったけれど、その後、純粋に仏法に基づいて修行するのが何よりの近道だと確信した経験が、彼にもあったからこそ、その言葉が口を付いたのだろう。今は私も同じ思いだ。

 余談ながら、老荘思想にかぶれた人が、わざとらしい超然キャラを気取りたくなるのは、よくあることで、ただの詩人が髭を伸ばして伊那谷の老子などと自称してみたりする。あほちゃうか、おっさん。

 老荘に限らず、変てこな作務衣とチャンチャンコをトレードマークにして、やたらと修行や神仏に関するコメントを垂れ流す宗教学者の重鎮や、愚にもつかない言説を、さも才能の発露でもあるかのようにひけらかし、バク転するのが自分流の瞑想だからと、聖地霊場でバク転し続ける神道学者も、きっと周りに、おまえ、あほちゃうかと言ってくれる良いお友達がいないんだろうと思うと気の毒で、やっぱり修行に「善友」の存在は不可欠だ。

 しかし、何だかんだと言っても彼らは所詮、学者や作家や詩人に過ぎず、いくら本人たちが勘違いしようとも修行者ではない彼らが調子に乗るのは仕方がないけれど、玄侑宗久師は芥川賞作家である前に、まずお坊さんではないか。

 だのに、「荘子と遊ぶ―禅的思考の源流へ」には、荘子の道は仏教の「実相」と「色」の関係と同じだとか、「荘子」を読む代わりに般若心経を唱えながら「朝徹」の境地を模索してたとか、蝉の声を真似て「ミ~~~~~ン」と声を出してみたとか、とにかくとんでもなく、つまらない。

 さらに師の公式ホームページには、「荘子と遊ぶ―禅的思考の源流へ」について、こんなことも書いてある。「これはいったいどういう本なのか、自分でもよくわからない。わからないが、荘子といえば、「遊」だし、「遊」なのだからこうなった。遊んでいるのはむろん荘子なのだが、遊ばれる自分を描きながら作者だって遊んでいるのである。むふふ。読んで遊んでね。」

 ああ、玄侑宗久師に関しては、何の恨みもつらみもないのだけれど、つまらない。本当につまらない。
                                     
                                    おしまい。