お坊さんになってすぐの頃、口を開けば「理屈を言うな!」と言われたが、その度に、これは理屈でも言い訳でもなくて、正当な事情を伝えようとしているだけなのに理不尽な、と思ったものだが、今思えば、その思いこそが「理屈」だった訳だ。
さて、その後、日本のお寺でも、海外のお寺でも、お参りに来る日本人には、お寺に来ていながら理屈を言う人が、とても多いことに気づいた。
これは日本のお寺での話。南無阿弥陀仏という回向の声が本堂から流れているのを聞いた参詣者のおじさんに、このお寺は浄土宗かね、浄土真宗かねと聞かれたので、天台宗だと答えると、何で天台宗なのに南無阿弥陀仏なんだ、おかしいじゃないかと質問されたことがある。
天台宗が浄土教を広め、浄土宗や浄土真宗の祖師方も、比叡山で修行された後に一派を開かれたんですよと答えると、その方は、ふん、その考えには一つ間違いがあるなと言って立ち去った。
それを先輩僧に言ったら、先輩は、わっはっは、どこが間違うてんねん、と大笑いした。当時の私はまだまだ純粋だったのか、「一つ間違いがあるな」という言葉が、悔し紛れのおじさんの、ただの捨てゼリフだったことに、気がつかなかったという訳だ。
仏教に関する豆知識を披露する人、偉いお坊さんと知り合いだということを吹聴する人、お坊さんを言い負かしてやろうと意気込んでいる人、寺にはいろんな人がやって来る。
たとえばお葬式や追善供養の法要に参列した子供たちが騒いでいるのを、お坊さんが注意したとする。そうしたらその親に、いいや、あんたにゃ世の中がわかっとらん、亡くなったばあさんはこの子たちが大好きで、こうしてにぎやかに法事をしてくれるのを、どんなに喜んでいるだろう、自分たちの思う形で弔ってあげるのが、ほんとの供養じゃないのかね、などと言われることも、あるかも知れない。
けれど、それは娑婆の論理だ。そんな議論を仕掛けること自体が間違いで、その人の言っている理屈が正しいかどうかは問題ではない。我を捨てて、理屈を捨てて、謙虚に心を整える、寺はそのためにあるのだから。
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