またかいなと言われそうで恐縮なのだが、パワースポットという言葉の流行が下火になるのをずっと待っているのだけれど、一向に衰える気配がないので、昨日、数珠のパワーについて書いたついでに、こっそりこれも書いてしまおうと思う。
仏教の目的は、一言で言うならば、心から夾雑物を取り除くことにある。それは欲や怒りといった、心の中の良くない要素を取り除くという意味でもあるし、あるいは諸々の誤った概念や呪術的思考に基づいた制度や事物を切り捨てるという意味でもある。
時代を経るにつれ、だんだんと各地の習俗や別の信仰が仏教に取り込まれたとは言え、原始仏教だって夾雑物のない純粋な哲学的思弁の世界だったわけではなくて、諸々のややこしい事柄を言って来たり考えたりするような人は、当時もいっぱい居た訳で、だからこそブッダは応病与薬・対機説法と言って、医者が病いによって薬を変えるように、相手の人となりや状況を見ては法の説き方を変え、それぞれの事態に対処した訳だ。
「スピリチュアル」も「パワースポット」も「気」も、仏教から見ればすべて夾雑物なのだけれど、言葉というものは、心を伝えるための単なる道具に過ぎないにも関わらず、使い方を間違うと、母体である心に対してとんでもない悪影響を及ぼすものだ。
たとえばお坊さんの中にも、「まあ言ってみれば、お寺は昔からパワースポットだったわけで…」とか「そうすることによって「気」が充満し…」的な物の言い方をする方もあるが、ちょっと対機説法的にオッサンが今風の言葉に乗っかってみただけなのか、少しはそうした言葉にも一理があると思って使っているのかは知らないが、用語というものは定着してしまうととても力を持つから、ぐんぐん引き寄せられて、ちょっと乗っかってみた小舟が、そのまま滝壺へということにもなりかねなない。
そんなわけで、パワースポットという言葉、もうええ加減にしてちょうだい。