「在家」って、何ですか?…在家得度やら在家僧侶やら何たらかんたらについて | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

 「在家」という言葉は「出家」の対義語だから、仏教用語であることは間違いないのだが、必ずしもお坊さんでない仏教信者すべてを指すわけではない。在家の仏教徒は漢語では優婆塞・優婆夷(うばそく・うばい)と音訳、あるいは信士・信女(しんじ・しんにょ)などと意訳されるのだが、現代語では「在家の仏教徒」とか「在俗の仏教信者」などと表現すべきだ。

 「出家」と「在家」という対比は、昔なら「僧」と「俗」、つまり「僧俗」という言葉で表現するのが一般的だった。平家物語に、神官の服装をした一人の俗人が現れて…といった表現が見えるが、今では宗教職という、お坊さんと同じ枠に括られがちな神社の神職が、昔の日本では在家という枠で認識されていたことが分かる。

 タイ語で在家者を指す「カラワート」という言葉は、出家を指すタイ語やパーリ語に比べれば、日常会話でもずっとよく耳にするが、ちなみにこの言葉の本来の語義も、「家に居る者」だ。

 さて、昨今、インターネット上などで、これはおかしいのではないかという記事や議論をよく目にする「在家得度」や「在家僧侶」という言葉だが、本来、「得度」という言葉が比丘や沙弥(しゃみ・小僧さん)の入信を指していたとしても、現代では在家者が在家戒を受ける場合にも使うから、必ずしも100%間違いだとは言い切れない。

 「有髪のまま、得度だけは済ませてある」みたいな言い方は、是非はともかく実際問題としては、もうよく聞く言い方だし、事実上、妻帯が認められている日本の住職の家族のために、「寺庭婦人得度」といった制度を設けている宗派もある。

 たぶん、出家・在家の区別が明確でなくなった日本仏教においては、在家主義とか在家仏教ということがやかましく言われがちなので話がややこしいのだが、「在家のままでも修行は出来る」とか「在家のままでも悟りは開けるはずだ」という考え方自体は、理論的にはおかしくない。

 しかし、「在家のままで僧侶になる」という言葉は、明らかに理論的に矛盾している。たとえ出家・在家の区別が明確でない日本のお坊さんが、在家と変わらぬ生活をしていたり、正式なお坊さんがお寺を持たず、一般家庭に住んでいたとしても、既成仏教の正式なお坊さんになるには所定の手続きがあるのであって、世間から何と見られようとも、彼らは決して「在家」ではないし、ましてや新興の「在家僧侶」と同等ではない。

 最後に一つ。お坊さんやそのご家族を始めとする寺院関係者の中には、「在家」という言葉を「一般大衆」と同様の、特権階級意識も露わなニュアンスで使われる方々が、宗派に関わらず、ごく稀におられるが、もちろんこんな用法は、100%大間違い。
          おしまい。