落語と説教…上方落語とお坊さん 3 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 自分が大阪に生まれ育ったからこそ分かることなのだが、必ずしも世人の言うように、関西人全員が笑いに長けている訳でもなければ、演芸に通じている訳でもない。ただ、子どもの時から寄席や演芸場の招待券を貰う機会が多かったり、落語を聞いている大人が周りにたくさん居たりしたことは、ありがたい環境だったとは思う。

 さて、落語が中世の説教から発祥した芸能であることは間違いないが、桂米朝師が名著「落語と私」などの中でも仰っておられる通り、現代のお坊さんの法話や布教は、落語や説教・説経とは、直接には何ら関係がない。

 お坊さんの中には法話が苦手で、何を話して良いのか分からないと言う方も多い反面、法話や説教が得意で、慣れた話術で多くの人々を笑わせたり、泣かせたり、感心させているお坊さんたちもたくさんいる。

 だがしかし、一つ間違ってはならないことは、米朝師匠のお弟子さんの桂米裕師のように、もともと落語家だった方が出家して、落語で布教をされているような場合は別として、お坊さんの法話というものは、どんなに上手に話をして、どれだけ聴衆を笑わせていても、それは落語家の話芸とは、全く別の物だということだ。

 仏法の布教を演芸なんかと一緒にするな、などと言っているのではなくて、落語好きのお坊さんもいれば、落語家と交流のあるお坊さんやお寺もたくさんあるけれど、お坊さんというものは、布教のプロではあっても、「笑い」のプロではないということを、世の法話上手のお坊さん方に、ゆめゆめ勘違いしないで頂きたいなと思うだけだ。

 布教の勉強会などでは必ず言われることだろうから、若輩の私などが改めて繰り返すことでもないけれど、自分の考えを自分の言葉で伝えるのでなければ、きっと仏法というものは相手の心に届かない。それこそ噺家さんが言うところの、自分のニンに合った法話を心がけることこそが、何より大事なのではないかいな?