ことわざなどを聞いて、昔の人はうまいことを言うなあと思うことがしばしばあるのだが、例えば「船頭多くして船、山に登る」。我の強い仕切り屋たちが事態を余計に混乱させている時に、船が山に登っている間抜けな図を想像すると、かえって微笑ましい気がしたりする。
という訳で、誰が言い出したのか、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」、一旦、人を嫌いになったら、その人の一挙手一投足、もう何を見たって腹が立つ。下手をするとその人が、にっこり笑って有難うと自分に向かって言っても、その笑い方、その物の言い方に腹が立つ。
ところで、どうして板前憎けりゃ包丁も憎いとか、医者が憎けりゃ聴診器も憎いじゃなくて、坊主憎けりゃ袈裟までなのか、お坊さんがそれだけ昔は馴染み深い存在だったのか、今と同様、世間には袈裟まで憎い坊主ばかりだったからなのか、或いは誰か特定のお坊さんの言動から故事成語的に発生した言葉なのか、とにかく昔の人はうまいことを言うなあと思う。
「坊主憎けりゃ」が貪瞋痴(とんじんち)の瞋、すなわち怒りや嫌いという感情を表しているならば、「あばたもえくぼ」ということわざは、貪、すなわち愛着や好きという感情を表している。やがてあばたがあばたにしか見えなくなり、えくぼもあばたに見え出した頃、話はめでたく、「坊主憎けりゃ」と同じ地平に着地する。
別に古人の知恵やことわざが、仏教の説く真理に達しているなどと屁理屈を付会する気はさらさらなくて、ただ昔の人はうまいことを言うなあと思うばかりだ。例えば、「二階から目薬」。そりゃあ二階から目薬を差したら、入りそうで入らんだろう。さぞ歯がゆかろうて。というわけで、昔の人はうまいことを言うなあ。
おしまい。
おしまい。