神道という宗教に未来はあるか? | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 宗教や伝説、神話などに幅広く興味があったので、お坊さんになる前に、先ずは神道学を専攻して、神職の資格も取り、その後、念願がかなってお坊さんになったという話は、前にも書いた。
神仏習合に未来はあるか?

 そしてその後、何人ものお坊さんたちから、神道って、わざわざ勉強するような内容があるの? という質問を、何度となく受けたのだが、今思えばあの方たちは、他宗教である神道を見下していたわけではなくて、単純に自然崇拝が形を成したような民族宗教に教義があるということが、想像できなかっただけなのだろう。そして、その感覚は正しいと、今になっては思う。神を祀る、というその一点だけが根幹である儀礼の体系に、教義を拵える方が不自然だ。

 しかし人間の文化が複雑になれば、人の脳は理論を求めるものらしい。中世には神仏習合への反発として、様々に奇怪な神道論書が生まれ、江戸時代には現在見るような形に落ち着き始めた仏教に対抗すべく、吉田神道が人工的な教義の下、神道を一個の宗教単位として再編した。

 本居宣長の国学は、神道を本来の自然な姿に還元する作業でもあったが、やはり人の脳は「宗教」を求めるものなのか、国学の教えをベースに神道を宗教化しようとする平田派の国学が、明治維新や、その後の国家神道の基盤ともなった。

 さて、第二次大戦後から現在に至る、現代の神社神道も、やはり自身が「宗教」でなければアイデンティティを保てないと感じるのか、例えば「ムスビ」だとか「マコト」などという、カタカナ書きの人工語で拵えた神道神学をこねくりまわしてみたり、反対に教義のなさこそが素晴らしい教義であり、癒しとエコと共生を、現代社会の中で体現している宗教こそが神道だなどと、うそぶいたりする。

 前にも書いたことだけれど、訳の分からんスピリチュアル系の人々が、神社参りをお勧めしている現状はとても危険だ。そして、やっぱり教義や修行がないと不安になるのか、ある神道学者などに至っては、バク転するのが自分の瞑想だとか、野山をほっつき歩くのが自分の回峰行だとか、挙句の果ては自分で曲を作って歌って神道ソングライターだと自称してみたりとか…あほか、ちゅうねん。

 単に仏教という他宗教に転向した人間が、神道の悪口を言っている訳ではない。あくまでも仏教と神道は、全く別の宗教体系であり、単に仏を拝むか、神を拝むかの違いではないということを、仏教者も神道家も、よく理解しておくべきだと思う。

 天台宗の場合は、仏法の守護者として、神祇をも礼拝する。天台宗のお坊さんになって、日本の神々を礼拝する時の、「オン ロキャロキャ キャラヤ ソワカ」という真言を教えてもらった時には、ああ、仏法が神々を止揚していると、身に染みて感じたものだ。

 くどいようだが、仏法すなわちブッダの教えは、極言すれば、諸行無常、諸法無我に尽きる。そして、その教えを体得するシステムに身を委ねていられることは、お坊さんである今の自分の、大きな喜びだ。




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