日本仏教の各宗派における僧籍取得、もしくは教師資格取得の行は、程度の差こそあれ、カリキュラム履修のための合宿コースのようだ。頭ごなしに怒鳴られたり、甚だしきは手が出ることもあるとのことだが、さて、それは体育会系の合宿とは似て非なるものなのだろうか?
弊害はさて置き、こうした修行形態にも利点はある。修行に来る人は寺院の子弟であれ、在家出身者であれ、様々な人となりで、様々な経歴を持っている。時には指導員よりはるかに年令が上で、社会経験に長けている場合もあるだろう。君は仏教のことには詳しいかも知れないが、世間というものは理屈で割り切るほどに一筋縄では行かないものだと、逆に指導員のお坊さんに説教を垂れたくなる修行者もいるかも知れない。
けれど、それは娑婆の論理だ。そういった、人によって違う様々な考え方、能力、人となり、経歴などを始めとする、集団の様々な我を突き崩し、強制的に軌道修正するために、一見体育会系的に見える、絶対服従的な修行体制も、有効だと考えることができる。
が、しかし、だ。いかなる理由があれ、お坊さんが慈悲と忍辱なしに弟子を指導することが果たして是か非か。たとえ方便であれ、ブッダが怒りを露わに弟子を指導したことがあるだろうか。原始仏教の名残りを今に伝えるテラワーダ仏教の場合、得度した者はすべて一律に比丘だ。サーマネーラ(小僧)であれ、二十才以上の正式な比丘であれ、後の修行は決められたシステムの枠内なら、基本的に自由意志に任されている。
もちろんテラワーダにだって、師匠や先輩僧の指導はある。夏の3ヶ月の修行期間、すなわち安居(あんご)、今年、テラワーダ諸国では7月8日が安居入りだが、この期間に出家したての見習い僧対象に、何らかのカリキュラムを課しているテラワーダの寺もあり、一見、日本の合宿修行に似ているようにも思える。また、テラワーダのお坊さんは基本的に怒ってはいけないのだが、日本同様、怖い顔で厳しく弟子を躾けているタイプのお坊さんもいる。
けれどやっぱりお坊さんは怒るべきではない。集団修行の良し悪しは別として、また緩やかであれ、頭ごなしであれ、百歩譲ってそれが指導のためのポーズであれ、怒りや怒鳴りを露わにせずに、修行者の我を崩してあげることができれば良いのだけれど。
先日、エコや癒しや共生やスピリチュアルという言葉のいびつさについて触れたが、私は「リセット」という言葉の今時な使われ方だけは、決して悪くないと思う。経歴も経験も、考え方も生き方も、全部リセットしよう。そして修行とはそのための、効率の良い、かつ慈悲に満ちたカリキュラムであるべきだ。