アジアの「業」思想…業つく婆あは業が深いか? | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

 インドのブッダガヤにある日本寺の境内で犬が死んだ時、インド人職員の一人が私にこう言った。かわいがっていた犬が死んだのは悲しいけれど、お寺で死んだことはこの犬にとって良い業(カルマ)になります。

 「南アジアを知る事典」(平凡社)の「業」(ごう)の項には、日本語の無力感に満ちた「宿業」という言葉は、現在の行為が未来を決定するという業思想の本来から遠く離れているとあるが、確かに因果とか因縁という言葉も、原因があれば結果を生じ、結果がまた原因となって結果を生じるというだけの機械的で明快な原理を指していたはずが、日本語では因果は廻るとか、親の因果が子に報いとか、正に因縁譚めいたおどろおどろしさだ。

 で、話は変わるが、俗に老人は頭が固いと言う。老い先短いとは言え、まだ間に合うからと思って、どうか心を解きほぐして良い心を育てて下さいと、手を替え品を替え法を説いても聞く耳を持たない。老人に限らず、若い人に比べておっさんやおばはんの我が強いのは、何十年にも渡る経験の反復が、心理学の初歩で言うところの水路づけ、大脳生理学的な思考回路の固定化で、がちがちの自我を形作るからだろうか。

 だから「業が深い」という日本語だけはおどろおどろしさを越えて、真理を穿った良い言葉だと思う。人間を形作る素因として、呑気な小説家が目新しいキーワードであるかのように言う「遺伝子と環境」など、何十年にも渡って自分自身が編み上げてきた業の深さに比べれば、物の数ではないと思う。

 けれどなお、まだ間に合います。心を解きほぐしましょう、梱包材のプチプチを一つずつ潰すように、少しづつ少しずつ根気よく。