笠井潔氏の連作ミステリに登場する謎の日本人青年矢吹駆(ヤブキカケル)は、パリの下宿の屋根裏部屋で一日わずかな食事を摂り、「簡単な生活 ラ・ヴィ・サンプル」と称して思索と散歩に日を費やしているが、中世の修道僧のようだと揶揄されるその生活は、仏教の修行生活にも適ったものだろうか?
第2作「サマー・アポカリプス」に出てくる神父が、苦行と言ってもただ身体を痛めつけるのではなく、各教団に何百年も蓄積された叡智の集積に基づいて苦行すべきだと言う意味のことを言っているが、矢吹駆のチベット仏教寺院での修行は第4作「哲学者の密室」、第5作「オイディプス症候群」でも繰り返し言及されるほど大事な体験であるにも関わらず、矢吹は仏教の解脱を神秘体験と混同しているような節がある。
それは矢吹が現象学を始めとする西洋哲学の枠内で思索を続けて来たための限界ではなかろうか。哲学という学問は、文学の一種として楽しむ分にはともかく、もうこの世には必要ないのではないかと思う。正に探偵が謎を解くように、この世の出来事がなぜ起こっているかを解き明かすための、哲学する心、というものは必要だと思うが、どんなに高邁に見えても哲学という学問は、所詮人間が人間の頭の範囲内でこしらえた理屈に過ぎないと思う。
仏教は宗教と言うよりも哲学に近い、みたいな言い方もよく聞くが、それがどんなに哲学的に見えても仏教はブッダが修行の末に体得した真理を追体験して体得するためのシステムの集積であり、それに基づいた修行生活は、哲学者のそれに比べれば、ずっとずっと簡単で、なおかつ有効なものだ。
もご覧ください。