タイ人に今度はいつタイに来るかと聞かれた時に、「ター・ミー・オッカー」と答えたなら、それは「機会があれば」という意味ではあるが、本当はいつ来られるか分からない時の社交辞令というニュアンスがなくもない。
一方で「ター・ミー・バラミー」、バラミーがあれば、と答えたならば、それはブッダの教えの通りに我らの善行が実を結び、きっとまた会えるに違いないという期待と意志を含んでいるという意味で、まさに日本語の「ご縁があれば」が適訳だということを、先日、日本人上座部僧プラ・ユキ・ナラテボー師とお会いした時に話し合ったものだ。
バラミーとはパーリ語のパラミーのタイ語訛りで、漢訳仏教の波羅蜜に当たるが、この波羅蜜のことを日本の仏教辞書などには、大乗仏教徒が実践すべき修行徳目である六波羅蜜の最初が布施波羅蜜なのは、大乗仏教の利他の精神を表わしているなどと書いてあったりする。
テーラワーダ仏教でも六波羅蜜に4項目を加えた十波羅蜜を説くし、「慈悲」は大乗、テーラワーダを問わず、仏教の最重要実践徳目だから、そうした説明は大乗教学に基づく日本の学者の思い込みなのではなかろうか。
漢訳の波羅蜜よりも、パーリ語のパラミーはどちらかと言えば「徳」といった程度の、もう少しシンプルなニュアンスで使われるように思う。前世からのパラミー「徳」があったから修行することができたとか、三宝の力と先代住職のパラミー「神通力」による御加護がありますようにといった感じで、「縁」も「徳」も「神通」もそれぞれ「パラミー」とは別の仏教用語だが、いっそすべてのニュアンスを含む、パラミーのニュアンスを表す日本語としては、別の仏教語ではあるけれど、「功徳力」(くどくりき)が最も近いのではないかと思う。
漢訳の波羅蜜よりも、パーリ語のパラミーはどちらかと言えば「徳」といった程度の、もう少しシンプルなニュアンスで使われるように思う。前世からのパラミー「徳」があったから修行することができたとか、三宝の力と先代住職のパラミー「神通力」による御加護がありますようにといった感じで、「縁」も「徳」も「神通」もそれぞれ「パラミー」とは別の仏教用語だが、いっそすべてのニュアンスを含む、パラミーのニュアンスを表す日本語としては、別の仏教語ではあるけれど、「功徳力」(くどくりき)が最も近いのではないかと思う。
※ 「ホームページ アジアのお坊さん 本編」も是非ご覧ください。