アジアの合掌 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 インド、ネパール、スリランカ、タイといった国々では挨拶の時に合掌する。ヒンドゥー教やテラワーダ仏教のようなインド文化が伝わった地域の習慣なわけだが、ではそもそもインドではなぜ手を合わせて挨拶するようになったのだろうか?

 人類学的にはお縄を受けるかのように両手を差し出す絶対服従のポーズが相手への帰依を表わすことになったという説を読んだことがあるが、果たして本当だろうか。不浄の左手と浄の右手を合わせるというヒンドゥー的解釈は仏教にも取り入れられ、合掌は浄不浄を超えた仏の境地を表わす、などと説明されたりする。もしそうなら、「お手々のしわとしわを合わせてしあわせ」という仏壇屋のコピーもあながち的外れではないと言える。

 中国の拱手、中国伝来と思われる日本の仏教や神道の叉手、キリスト教の按手など、地球上には洋の東西を問わず手を合わせる挨拶や作法がいろいろあるし、仏教には様々な種類の合掌法が伝わっているところを見ると、両手を合わせるという行為は仏教徒に限らない、人類共通の動作かも知れない。手や指の発達が道具の使用と共に人類の脳の進化を促したのだから、手を合わせることが精神の安定に影響し、心を落ち着けるから合掌するようになったとは考えられないだろうか?

 デュラン・れい子氏の「地震がくるといいながら高層ビルを建てる日本」(講談社+α新書)に、ヨーロッパ人の中には相手が日本人だとわかると合掌してくる人がいるということが書かれているし、ウィキペディアの合掌の項目を見ても、西洋人がよくそう誤解していることについての記述がある。デュラン氏はまた、アジアで仏教徒に合掌された時、自分も合掌を返したものかどうかと悩んでおられる。そしてこの国際派を自認する著者ですら、自分に仏教徒としてのアイデンティティーがないことを告白している。

 中国系仏教国である中国、台湾、韓国、日本などでは仏教徒以外は挨拶の時に合掌しないが、私はお坊さんなので、反対に日本で西洋人に道を聞かれたり、台湾や韓国で道を聞いたりする時に、挨拶や感謝の意と共に合掌するが、相手は100%合掌を返してくれる。合掌はとても美しい礼法だから、外国人がどんどん誤解してくれて、お辞儀や目礼や会釈のような日本古来の挨拶と共に、やがて日本人も挨拶の時に合掌するようになればいいのにと、時々夢想したりする。