坐禅と瞑想の違い…坐禅していて蚊に刺されたら | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

地球上にはキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教などいろいろな宗教の瞑想法があり、その中の仏教式には大きく分けてチベットや中国・日本の密教式瞑想と、上座部仏教のヴィッパサナ瞑想 vipassana meditation、そして禅式の坐禅 zen meditation の3通りがある。
 
ところで、インドのブッダガヤにある日本寺の本堂には蚊が多くて、坐禅に来た旅行者を悩ませたものだ。インドの蚊に刺されたら痒いと言うよりは痛いからなおさらなのだが、蚊に刺されても動じない、無我の境地を目指すのが坐禅の目的なのではない。

 

或いは日本寺で坐禅を終えた日本人に質問はないかと尋ねたら、よくわかんないけど、なんか今「無」の一瞬があったんですよと言われたことがあるのだが、それもまた「無」の瞬間ではない。

 

仏教に疎いと言われる現代日本人の頭にも「無」とか「無我の境地」とか「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などという言葉は意外と入力されていて、妙な先入観になっているのだろうけれど、少なくとも無になろうと努力すること自体が坐禅の目的なのでは決してない。

 

或いはまた反対に、黙想とか瞑想という日本語に惑わされるのか、坐禅中に仏教的なことを思索しても良いと勘違いしている人も多い。瞑想という日本語は英語の meditation を訳した比較的新しい言葉であり、元は神を観想するキリスト教の修行方法を指す言葉だった。
 
スマナサーラ長老ですら初期の頃には、ヴィッパサナを指す bhavana (修習)というパーリ語の訳としての「瞑想」という言葉は本当は適切ではないと仰っていたし、禅僧の方には坐禅のことを瞑想と呼ぶのを嫌う人が昔は多かった。これだけ日本で瞑想というものが市民権を得た今となっては、事情は違って来ているだろうけれど。

 

独学で瞑想を始めることは不可能ではないし、仏教の大前提に気づくことによって生活から苦しみを減らすことにもなるから、瞑想をしないよりはした方が絶対に良いのだが、やはり良き師がいないとなかなか先には進みにくい。
 
少なくとも人間の肉体は蚊に刺されたら痒いし、火に包まれたら熱いというごく当然の真理を見失わないためにも、できることなら良き指導者が必要だ。

 

※天台宗では瞑想を「止観」という言葉で表わし、坐禅のことを坐禅止観と言います。また密教式の瞑想は観想とか観法などと表現されます。いずれも現代日本語の「瞑想」とは違った内容を表現する、伝統的な工夫です。