「気づきの瞑想で得た苦しまない生き方」と「家庭でできる法事法要」 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 タイで修行する日本人上座部僧プラ・ユキ・ナラテボー師から、ご自身が監訳を務められた「気づきの瞑想で得た苦しまない生き方」(カンポン・トーンブンヌム著・浦崎雅代訳・佼成出版社)という本を頂いた。身体に障害のあるタイ人の著者が、瞑想修行によって立ち直る過程を綴ったこの本は、瞑想の入門書として読んでも大変に役に立つ。訳文がこなれた読みやすい日本語であるのも心地よい。

 5月の朝日新聞書評欄で「家庭でできる法事法要」(橋爪大三郎著・径書房)という本が紹介された。お坊さんを呼ばずに自分たちで手作りの法事をしようという趣旨の本だ。

 私はお坊さんだけれど、お坊さんの既得権を守るために、自分たちだけで法事をしようなんて言語道断、本末転倒だなどと言うつもりは毛頭ない。既成仏教批判はごもっともだし、その上で仏教そのものは素晴らしいから仏式の手作り法事をという意味だってわからなくはない。でも意味のわからないお経を聞くのはおかしいと言いながら、結局わざわざ漢訳の初期仏典を、既成仏教の読経と同じようなスタイルで読む必要があるだろうか? 法事を現代的で心の籠ったものにするためのアイデアを何通りも提示するのは親切だが、本当にそれで「子供たちが退屈しない」法事ができるのか? よく自分で戒名を付けようという本も出ているが、確かに日本の戒名制度はおかしいけれど、それなら戒名はいらないと何故きっぱり言えないのか? いくら理論武装してみても、戒名を自分でつけるなんて自己矛盾だと思う。

 わかっている、わかっている、悪いのはこうした本の著者たちではなく、魅力的な法事ができず、戒名の正しい意味も教えられず、戒名料を不要にできない日本のお坊さんたちなのだ。普通に法事をし、普通に法を説けば、パっとしない仏教ルネッサンス運動的なわざとらしい装いをとらなくても、十分に人の心を救えるのに、既成仏教が悪いから「家庭でできる…」と同種の本が後を絶たないのだ。その主張はもっともだし、批判をする気はないのだが、こうした本を目にするたびに、お母さんのせいでお前が非行に走ったんだね、ごめんよと泣き叫ぶ母親のような歯がゆい気分になる。多分、仏教のあり方も地球環境も人々の意識も大きく変わろうとしている今は過渡期だから、お寺も人々も試行錯誤している状態なのだろう。こうした本を読むのも悪くはないが、どうか「気づきの瞑想で得た苦しまない生き方」のような本も是非読んで頂きたいものだと切に願う。


※聞いただけでは理解できない漢文のお経が日本で読まれていることについては、4月29日付「プラ・ユキ・ナラテボー師のこと」、5月14日付「ごく私的なお経の話」もあわせてお読み頂ければ幸いです。