どんな宗派のお坊さんだって、禅宗のお坊さんには一目置いている。いざとなったら立ち居振る舞いや所作はきれいだし、精進料理だって作れる。托鉢や坐禅は得意だし、頭はいつもきれいに剃っていて、簡素な衣をきっちり着こなす。禅宗より古い宗派が、禅宗の所作や修行形式を取り入れた気配もあるし、求道心に燃えた他宗のお坊さんが禅寺の門を叩いたという話もよく聞く。心のどこかで、禅はいいなあ、と思っているお坊さんは多い。
熱帯生まれの仏教が、東アジアの気候風土に合わせて改良された完成形が禅だ。本尊は釈迦牟尼仏、即ちブッダで、托鉢・坐禅を旨とし、きれいな揃いの衣を着て戒律厳しく暮らしている。つまり初期仏教、上座部仏教のお坊さんと同じなわけだ。そしてベトナム人僧侶、ティック・ナット・ハン師が「禅への鍵」(春秋社)で説くように、禅の精神は、今、ここに対する「気づき」(sati、mindfulness)を修行の根本に据える上座部仏教とまったく軌を一にするものだ。台湾や韓国でも禅は念仏と共に必ず併修されるが、さらに禅は日本で独自の発展を遂げ、中国語の「Ch'an」の日本語読みである「ZEN」は、英語圏に留まらない世界の各国で普通名詞となった。
禅語や公案、禅僧のエピソードは他宗のお坊さんも法話に使う。禅宗でないお寺を拝観しても、段差のある廊下には「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」と書いてある。まさに実際問題として足許にご注意下さいということと、今この瞬間、足の運びに気づくという禅の精神、即ちsatiは別物ではないのだ。あるいは茶道用語としても有名な「喫茶去(きっさこ)」。熱く仏法を問い詰める修行僧に、まあお茶でも飲んで行きなさいと返した高僧の言葉、カフェでお茶を飲んでほっとするその瞬間ですら、修行に異ならないことを教えてくれている、素敵な言葉だ。
観光寺院でわがままな観光客を相手にして、こんな毎日でいいのだろうかと悩んでいるお坊さんもいるだろうに、禅寺の本山に行ってみれば、境内の塔頭寺院の門には達筆でたった一言、「拝観謝絶」。
禅はいいなあ。
禅はいいなあ。