アジアでのお寺詣りは本当に気持ちがいい。インドのブッダガヤでは、大塔の周りで各国の仏教徒が思い思いにお詣りしている。日本寺に来て見れば、こちらは打って変わって広くて静かだ。日本のお寺ともまた違う大らかな環境だから、日本でなら絶対にしないのに、つい本堂の回廊や境内の芝生で寝転がりたくなる心理はよくわかる。良寛気取りのやさしい日本のお坊さんなら、「僕なら一緒に昼寝しちゃうなあ」などと言ってくれるかも知れないのに、インド人職員にここで寝るなと注意させた私は本当に意地悪だ。おまけにその話を取材に来た「地球の歩き方」の記者に話したものだから、あれから10年も経つのに「日本寺が気持ちいいからと言って昼寝しに来ないように」といまだに書いてあるのは申し訳ない限りだ。
それでもなお、お寺は昼寝に来る所ではない。韓国のお寺ではみんながそれぞれに礼拝したり、坐禅したりしている。タイのお寺では、例えばお経をあげている人がいると思えば、あちらでは女性がお坊さんに悩みを聞いてもらっている。かと思うと柱の陰では若い男の子が坐禅している。でもみんなが余り気持ち良さそうだからと言って、カオサンのそばのお寺の柱の陰でうたた寝してはいけませんよ、そこの日本人女性旅行者の方。あるいはバンコクのあるお寺で、毎日昼の12時からお勤めがあり、誰でも自由にお詣りできるのだが、日本人学生グループの方、誰に言われたのか全員靴を持って本堂に入っている。インドだったら大変なことになるが、タイ人は優しいから何も言わない、でも確かに壁画はきれいけど、とりあえずはまず手を合わせなさい。あるいはあちらの一人旅の日本人女性は壁にもたれて片膝立ちでノートをとりはじめた。旅の感想かそれとも堂内の様子をメモしているのか、こののどかな環境の中でほっこりしたいのはわかるけど、そろそろお勤めが始まりますよ。
日本の、特に京都のお寺などで、みんなが庭に向かって縁側に坐っているのは一体何のまじないなのだろう。やさしい日本のお坊さまなら「この何もしない時間が大事なんですよ」などと説いてくれるのかも知れないが、意地悪な私はみんなが口々に「いいよね、こういうの」みたいなことを言いながら同じ方向を向いているのは、誰が始めた儀式なのだろうと思ってしまう。
タイではお経も坐禅の仕方も、執着を捨てれば楽になるというブッダの教えも、みんなが子供の時から知っていて、だから自由にお寺詣りができるのだ。ただゴロゴロしに来ているわけではないのですよ。そして人々はにこやかで優しい。タイでお寺詣りをする度に、ここは本当に仏国土だと思う。
アジアでお寺詣りをするように、みんなが気楽に生きられれば幸いです。