これからを期待される若手蔵の飛躍を願い、多くの人たちに今の日本酒を知ってもらいたいとの思いと日本酒のある暮らしを提案するイベント『若手の夜明け』は、2007年よりスタートしました。

 今年3月31日に京都で開催されたスピンオフ企画「春の宵 若手の宵祭り」は、新進気鋭の三つの若手蔵による自慢の日本酒を楽しみながら、酒造りへの思いや情緖をトークや映像で楽むイベントでした。

 

 当日の参加蔵は、

 『浦里』 浦里酒造店 (茨城県つくば市)

 『Te to Te』 浪乃音酒造 (滋賀県大津市)

 『KINO』 元坂酒造 (三重県大台町)

三人の蔵元のお話を聞きながらお酒を呑む、楽しい春の宵でした。楽しく歓談する中で、浪乃音酒造の中井充也さんが、私のつけるピンバッジに興味を示されたのが、今回の企画の始まりです。

 

 今回の浪乃音酒造さんのピンバッジは、浪乃音11代目の中井充也さんが醸す新しいお酒「Te to Te」です。

 

 浪乃音のモットーである「古壷新酒」の精神、丁寧に丹精込めて小仕込みで手造りすること、「手造りのお酒を私たちの手からお客様の手へ」という意味を込め、世界中の皆様と「手と手を繋ぐ」想いを表し、飲む人の心を温かく照らすよう願い、お酒「Te to Te」は生まれました。

 

 浪乃音酒造さんは、大津市本堅⽥、⾃然に育まれた美しい琵琶湖の西岸のほとりにあります。

 創業は1805年(⽂化⼆年)200年以上の歴史を持ち、「浪乃⾳」という名は⽐叡⼭の⾼僧によって命名されました。

 

 湖畔には近江八景の一つとして名高い満月寺浮御堂の「堅田の落雁(歌川広重)」と出島灯台があります。

 平安時代に堅田は下鴨神社の御厨となり、下鴨神社の後ろ盾をえて琵琶湖の漁業権・通行権をにぎり、大いに栄えました。

 琵琶湖・堅田といえば湖の海賊「湖賊」という言葉が私の頭の中に出てくるのですが、これは、私が中学生の頃に放送されていたNHK大河ドラマ『新平家物語』の影響のようです。

 原作の小説『新平家物語』の中で吉川英治氏が、その頃の琵琶湖を行き交う堅田衆のことを、「湖賊」と呼び、「湖族」と変えて「堅田湖族」というイメージが出来上がったそうです。

 

 また、堅田には、後小松天皇の落胤と伝えられている一休宗純が22歳から34歳まで修行した寺、臨済宗大徳寺派の名刹である祥瑞寺があります。

 一休は、京都西山西金寺の謙翁宗為のもとで修行していましたが、1415年(応永21年)、一休21歳の時、師の謙翁宗為が亡くなります。

 絶望のあまり、瀬田川に身を投げようとしますが、引き戻され、自殺は思いとどまり、翌年、22歳の一休宗純は、京都の大徳寺の高僧である華叟宗曇へ弟子入りを乞い、華叟がひらいた堅田祥瑞庵(現祥瑞寺)の門を叩きました。

 

 やがて一休は、「洞山三頓の棒」という公案(洞山という坊さんが、長い旅の末、雲門禅師にどこから来たのかと問われ、査渡よりと答えました。昨夏はどこで過ごしたかと重ねて問われ、湖南の報慈ですと答えます。更にそこを出立したのはいつかと問われ8月25日と答えました。すると、雲門は「汝に三頓の棒を放す」 といわれたのです。要約すると、雲門禅師は、洞山に禅の盛んな江西湖南を廻りながら、悟りを開けぬことに、一頓は20発なので三頓 60発棒で殴りたいほど無駄飯喰であると大喝し、洞山は大悟したのです。)に対して、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」(有漏路とは迷い・煩悩の世界、無漏路とは悟り・仏の世界を指します。)と答えたことから華叟より一休の道号を授かったのです。

 

 応永27年(1420年)、一休は、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟します。

 華叟は印可状を与えようとするが、権威を否定する一休は辞退しました。

 以後は酒と女性が大好きで、詩・狂歌・書画と風狂の生活を一休宗純は送ったそうです。

 かなうならば、一休宗純の肩を抱き、酒を呑みながら語り明かしてみたいですね。

 

出典、参考文献・HP

浪乃音酒造HP

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