昨年8月7日に香川県丸亀市で開催された「蔵元と語る会」で初めて呑んだ加藤嘉八郎酒造のお酒「大山」「十水」の旨さに、思わずお声掛けしたのが加藤嘉晃さんでした。

 お話しする中で、私のつけていた日本酒ピンバッジに目を留められ日本酒ピンバッジ倶楽部を紹介したのが今回の「十水」ピンバッジの始まりです。

 

 お酒の銘柄になっている「十水」とは、「米十石:水十石」の比率で、通常より米の割合が2〜3割ほど多い濃厚な醪を仕込む「十水仕込み」からきており、原料米は磨くほど米が多く吸水する為、醪の攪拌が困難になるので、加藤嘉八郎酒造さんでは、(醪発酵タンク「OSタンク」を自社開発したそうです。

 

 ピンバッジデザインの「特別純米 十水」は、H22BY(平成22酒造年度)より取り組まれ、濃厚でコクがあり、しかも柔らかくキレのある味わいです。

 

 

 加藤嘉八郎酒造さんの代表銘柄は「大山」で、山形県鶴岡市で1872年(明治5年)から続いている伝統ある蔵元です。

 庄内地方は、鳥海山・出羽三山等に囲まれ、その伏流水と最上川など豊かな水に恵まれており、江戸時代から質・量ともに全国有数の米どころとして有名で、なかでも鶴岡市大山地区は、かつて天領(幕府直轄地)として江戸時代初期から本格的な酒造りが始まり、昔は数十軒の酒蔵が軒を連ね「東北の小灘」とも言われて、広島の西条、神戸の灘と共に酒どころとして並び称せられました。

 加藤嘉八郎酒造さんはこの大山の地に明治5年に創業し、この地を代表する酒として「大山」と命名されました。

 東北地方の多くの酒造家が「大山」に学んだと言われ1973年(昭和48年)「OSタンク」(0.2℃単位の精度で温度管理が可能)を自社開発、1978年(昭和53年)「KOS製麹機」(高品質で清潔・安定した吟醸タイプの麹造りが可能)も自社開発し、酒質を向上させる為に早くから機械化を進めてきたそうです。

 

 同蔵では、「酒は大山 愛の酒」という言葉をよく使っているそうです。発酵中の菌たちの「ため息・といき」に耳をすませて、人と酒、人と人の「調和」を醸しだすような酒造りを行っており、「調和」とはすなわち「愛」のことなのであり、「愛の酒」を造っているということだそうです。

 なんだか、親父が飲むには少し照れちゃいますね(笑)。

 

 ところで、加藤嘉八郎酒造さんは、豊臣恩顧の大名・肥後熊本53万石の城主であった加藤清正の流れを汲んでいるそうです。

 江戸初期、清正の死後、嫡男の忠広は徳川三代将軍の跡目騒動にかかわったとして領地を没収され、鶴岡の酒井家お預かりとなりました。その後、出羽国丸岡に堪忍領として一代限りの1万石を与えられ、22年間の余生を過ごしました。

 忠広は、書や和歌音曲に親しみ、社寺参拝、水浴びなど、かなり自由に生活を楽しんだようです。

 

 また、忠広は、父の遺骨を密かに丸岡へ移し、弔ったと伝えられていおり、丸岡城跡に隣接する天澤寺本堂裏には、一間四方のお堂「清正閣」、清正の墳墓といわれる「五輪の塔」があ残されています。

 

 忠広の嫡男の光広は飛騨高山藩主の金森重頼にお預けとなり、堪忍料として月俸百口を給され、天性寺に蟄居しましたが、配所にて1年後の寛永10年(1633年)に病死しました。

 次男の正良は藤枝姓を名乗り、母である忠広の側室・法乗院と真田氏へ預けられていましたが、父の後を追って自刃し、これにより加藤氏の後継者がなくなりました。

 

 しかし、忠広は公ではないが、丸岡において2子(熊太郎光秋、女子某)を儲けたと言われ、その子孫は五千石相当の大庄屋・加藤与治左衛門家として存続しましたが、この家系を最後に継いだ加藤セチ(日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号として知られる)の死去により、加藤本家は絶えることとなったのですが、筆頭分家の加藤与忽左衛門家を始めとするその他の子孫は、山形県を中心として全国各地で家系を伝えたそうです。

 その後、子孫の中から造り酒屋を営む者が現れ加藤嘉八郎酒造さんとなったのでしょうね。

 

出典、参考文献・HP

加藤嘉八郎酒造 HP

加藤清正公忠廣公遺蹟顕彰会資料

山形県指定史跡「丸岡城・加藤清正墓碑」櫛引町教育委員会

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