広島県にある大久野島は、近年は外国人旅行者にインスタグラムなどSNSにより「ウサギの島」として広く知られています。

私が訪れた時も、玄関口である広島県竹原市の忠海港のフェリー乗り場には、海外の方々や若いカップルがたくさんいました。

 

 

フェリーに乗り、大久野島 第二桟橋につくと島内では、休暇村 大久野島が船舶の時刻に合わせて無料送迎バスを運行しているのみで、車利用はできず、桟橋近くで車を止め歩いて散策する事にしました。

 

かつて、香川県高松市に住んでいた時にも地元の方が「瀬戸内海は島がいいので、ぜひ休みの日には島へ渡ってみてください。」とよく言っていましたが、穏やかな瀬戸の海の中に浮かぶ島々の景色は、とても静かで美しく、瀬戸内海の島は本当いいとしみじみ思います。

 

 

浜辺のベンチに座り、海や近くの島影を見つめ、聞こえてくる波の音やときおり近づく小さな船のエンジンの音の中にいると、体の中を時間がゆっくりと流れていきます。

 

 

北海道や沖縄、太平洋や日本海で感じる、地球の大自然の中のちっぽけで孤独な自分を感じるのとも違う、穏やかで人々の生活がある海は、豊かで恵みがあり温かく優しい感じがするのです。

 

ふと気づくと、足元にウサギが・・・。

 

人に慣れたウサギが、少し背伸びして私の顔を覗き込んでいました。「うぅ・・・、可愛い。」少しニヒリズムの影響を受けている髭の親父でも、つぶやいてしまうのでした。

 

 

ちなみにこのウサギは、1963年に大久野島が国民休暇村となり観光整備されたときに飼っていた物が増えた事と、そのことを知った人たちが、自分たちの飼っていたウサギが飼えなくなった時にこの島にもって来て放したものと考えられているそうです。

 

 

休暇村でピンバッジを手に入れた後、訪れたのは「大久野島 毒ガス資料館」です。私自身、戦時中に瀬戸内海の島で毒ガスが作られていたと何かの資料で読んだことがありましたが、外国人の方々に人気のこのウサギの島とは結び付きませんでした。

 

実際に島を歩くと、戦時中の遺跡が島のあちこちに残されています。毒ガス資料館で手に入れた『おおくのしま平和学習ガイドブック』から、大久野島と毒ガスの歴史について、少し記したいとおもいます。

この島では日本陸軍が1929年から15年間毒ガスを製造していました。

 

1914年に始まった第一次世界大戦では、参戦した各国が、1899年のハーグ条約で毒ガス使用が禁止されていたにもかかわらず毒ガス兵器を使い100万人を超えるヨーロッパの人々が死傷しました。

 

このことから戦後、1919年のベルサイユ平和条約締結時に改めて毒ガス使用禁止が話し合われ、1925年には毒ガス・細菌兵器の使用が禁止され、ジュネーブ議定書が結ばれました。(しかし、この議定書において制限されたのは使用のみで、開発、生産、保有が制限されない事、日本は、署名はしたものの第二次世界大戦前には批准しておらず、1970年に最終合意しています。) 

 

日本陸軍は、1919年に東京都新宿区百人町に陸軍科学研究所を設置し、毒ガスの研究開発を進めていました。

1923年には、その敷地内に臨時毒ガス製造施設建設準備段階で関東大震災が発生し、大きな被害が出たため、毒ガス工場は地方に作る事になり、大久野島が選ばれたのでした。

 

ガイドブックには「東京で被害が出ては困るものは地方でも同じであるはずでるが、人口が少ないとの理由から犠牲を地方住民に背負わせる構図は、現在の原子力発電所の建設場所と重なる。」と記されています。

 

大久野島の毒ガス工場は1929年から毒ガス製造が始まり、その秘密を守る為、大久野島は当時の日本地図から消されていました。工場で作られた毒ガスの量は15年間で約6,616トンにおよび、イペリット・ルイサイト、くしゃみ性ガス、青酸ガス、催涙ガスなどが作られました。

これらの毒ガスは、中国で二千回以上使用され、8万人以上を殺傷したと言われています。

また、大久野島の毒ガスは直接製造にかかわった工員だけでなく、毒ガス兵器加工作業に従事した徴用工や学徒・女子挺身隊などの多くの日本人にも被害をもたらしました。

 

しかし、戦中秘密にされていた毒ガスに関しては、戦後も公にされなかったために、その被害にあった人々に対しての戦後保障や治療は遅れ、1954年の「ガス障害者救済のための特別措置要綱」通達によって大蔵省から年金や遺族年金給付が始まるもその認定は軍属などに限定され、1975年に厚生省から学徒や勤労奉仕隊、戦後の毒ガス処理で被害にあった民間人に医療手帳の交付や医療費支給が行われることになりましたが、旧軍属との格差が大きかったのです。2001年になってようやく厚生省は「官民の救済差」を是正しました。

 

大久野島の島内には、今なお、戦時中の施設や毒ガス関連施設が残されています。

 

毒ガス検査工室

この建物では、毒ガスの濃度含有試験など実験が行われていました。毒ガスの分析なども行う分析室もあり、室内通路の天井には換気用の穴が開けてあります。毒ガスの実験にはウサギが使用されており、戦時中は別の場所で常時約200匹が飼われていました。新しい毒ガスができるとウサギを連れてきて実験に使用しました。この建物の一番奥には2m四方の毒ガスを燃焼させる器具がついているガラスの箱(ガスチャンバー)があって、ウサギや小鳥を入れて毒ガスを燃やし実験をしていました。

 

毒ガス研究室跡

毒ガス製造の研究が行われており、そのための薬品や標本、機密書類なども置かれていました。この研究室は、大久野島毒ガス工場の管理課ではなく、東京第二陸軍造兵廠化学部の管理下にある研究室でした。敗戦後、この中の資料などは証拠隠滅の為、真っ先に処分されたそうです。

 

敗戦時に日本全国の多くの役所から煙が立ち上っていた事が、当時の人たちの記録に記されています。

その結果、日本の近現代史に関して、アメリカの公文書館からの記録によって、その頃の日本の事が判ったという新聞記事を見る事があります。これって、とても残念なことですね。

 

かつて、中国では、古代より必ず王朝ごとに歴史を記録し、編纂する史官がおり、史書(正史)が編纂されて現在にも伝わっています。『史記』を編纂した司馬遷もその一人です。

また、現代の中華人民共和国でも『清史』、台湾では『新清史』が編纂されています。

 

日本は、戦後「平和憲法」のもと戦中の近隣の国々への加害を反省し、様々な努力を行ってきました。しかし、1945年のポツダム宣言受諾・降伏文書署名の戦争終了から75年が経過し、戦中を知る多くの人々が亡くなった2020年の現在、過去の戦争責任を問われた時に「そんな証拠はどこにもない。」という声が日本国内から聞こえる事があります。

戦争終了時に多くの役所から煙が立ち上っていた事が、彼らの声の後押しになっているのだとしたら?

現在の日本で、シュレッダーを使い同様の状況が起こっているのだとしたら?

これから日本に入ってくる多くの外国の人々はどう思うでしょうか。また、これから海外へ出ていく多くの日本の若者たちにどんな影響を及ぼすでしょうか。

 

毒ガス資料館の展示品を見た後、資料を求めるために言葉を交わした資料館の管理をしていたオジサンの言葉が、今も耳に残っています。「広島は原爆の被害を忘れないでと大きな声で叫んでいるが、ここで作られた毒ガスの加害も忘れてはいけない。」

 

私が、資料館で展示物を見ている時間は静かで、他に訪れる人はいませんでした。

 

出典、参考文献・HP

広島県竹原市HP大久野島毒ガス資料館ご案内

大久野島から平和と環境を考える会HP

『おおくのしま平和学習ガイドブック』

大久野島から平和と環境を考える会 編

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