9月から10月にかけて、私の人生最大のイベントRWCをエンジョイしていたために、ブログもラグビー中心でした。

ラグビー日本代表もベスト8に入り、開催国としての最大の目標を達成し、代表も私も次のステージへと向かいます。

 

さて、少し時間はさかのぼりますが、RWC2019日本の二戦目、世間で言われる「静岡の衝撃」の試合観戦の前日、9月27日に私は静岡へ向かっていました。

アイルランド戦は、娘と翌日のスタジアムで待ち合わせする事にして、私は先に一人静岡に入り沼津・伊豆方面へ趣味のピンバッジを求めてドライブしました。もちろん、その夜の静岡おでんでの一杯も楽しみに・・・。

 

アッパレ しずおか元気旅

2018年、2019年、2020年の4月~6月に静岡県では19年ぶり3回目の開催となる静岡デスティネーションキャンペーンのロゴマークのピンバッジです。

 

 

このロゴは、静岡文化芸術大学のデザイン学部の学生9名が協力し、「アッパレ」というシンプルなフレーズと、宝永山を力こぶに見立てた富士山のデザインで、静岡が国内外に誇る「アッパレ」なもの、温暖で明く素晴らしい魅力にあふれ、訪れた人が気分爽快になり、霊峰富士山のご利益を授かって、元気になれることを表現したものです。

 

伊豆の国市では、このピンバッジと出会いました。

韮山反射炉の世界遺産登録を支援する会(通称:韮山反射炉応援団)のピンバッジです。

 

 

この会は、韮山反射炉の世界遺産登録を一般市民が応援するために、平成24年4月4日に発足しました。

平成27年(2015)7月8日、ユネスコの世界遺産登録会議で「明治日本の産業革命遺産 ―製鉄・製鋼、造船、石炭産業― 」の23構成資産の1つとして世界遺産に認定され、現在は韮山反射炉を愛する会となり、反射炉を文化遺産として未来に継承するために、会員を募集しています。

 

国指定史跡「韮山反射炉」静岡県伊豆の国市中字鳴滝入

韮山反射炉は、日本の近代化の第一歩を示す建物であり、品川台場(現在の東京都品川区台場)に設置する大砲を実際に製造した反射で、国内で唯一現存するものです。

 

 

以前、「新潟・大阪・神戸 開港150周年」の項で書きましたが、幕末・維新の群像は薩長土の人物に目を奪われがちですが、私は多くの幕府の政治家・官僚の優秀なことに驚いています。

韮山反射炉建設を建言した江川太郎左衛門英龍(坦庵)もその一人です。調べると、NHKの大河ドラマの主人公になりうるような才能と行動力とエピソードを持った人です。

 

彼は、幕府直轄地(天領)の民政に従事した伊豆韮山代官の江川英毅の次男として1801年(享和元年)生まれます。

江戸時代に江川家は伊豆韮山代官として従事し、代々の当主は太郎左衛門を名乗り、英龍はその36代目になります。

父・英毅が長命だった為、英龍が代官職を継いだのは1835年(天保6年)35歳の時で、それまでは江戸に遊学して学問を佐藤一斎、書を市川米庵、詩は大窪詩仏、絵を大国士豊や谷文晁、剣術を岡田吉利(初代岡田十松)に学ぶなど、当時としては最高峰の教育を受けています。

特に剣術は、岡田十松の撃剣館四天王の一人に数えられ、神道無念流免許皆伝で、同門の斎藤弥九郎と親しくなります。

斎藤弥九郎といえは江戸三剣客の1人にも数えられ、幕末に「技の千葉」(北辰一刀流・玄武館)、「位の桃井」(鏡新明智流・士学館)と並び、「力の斎藤」と称された神道無念流の剣術道場の練兵館を開いた剣術家です。(門下には、塾頭を務めた長州藩の桂小五郎、高杉晋作、井上聞多、伊藤博文、品川弥二郎がいます。)

 

江川邸

 

英龍が代官になった翌年、1836年(天保7年)に甲斐一国規模で多くの無宿(博徒)が参加した天保騒動が発生しました。

この騒動が天領の武蔵・相模へ波及することを警戒した英龍は、正体を隠し斎藤弥九郎を伴い甲州微行しました。

時には、斎藤弥九郎と行商人の姿で隠密に領内を歩き回ったりしたそうです。

 

領民を慈しみ、施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行い、領民への接種を積極的に推進する英龍の姿勢に、領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛しました。

 

幕閣では、水野忠邦に信頼され、長崎へと赴き高島秋帆に弟子入りし近代砲術を学ぶと共に幕府に高島流砲術を取り入れ、高島流砲術を改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育しました。(その門下には佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(木戸孝允)・伊東祐亨などがいます。)

 

このころ川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で英龍は渡辺崋山・高野長英ら尚歯会の人物を知り、洋学知識の積極的な導入を図ります。

やがて、1839年(天保10年)蘭学を嫌う目付・鳥居耀蔵ら保守勢力が冤罪をでっち上げ、崋山・長英らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやます(蛮社の獄)。

しかし英龍は、彼を高く評価する忠邦に庇われ、罪に落とされなかったとも、もともと耀蔵と英龍は以前から昵懇の間柄であり、英龍を標的とはしていなかったとも言われています。(幕府官僚同士の忖度があったのかもしれませんね・・・。)

 

この鳥居耀蔵という人物もとても面白い人で、「天保の改革」では水野忠邦に信頼され、天保12年(1841年)に南町奉行の矢部定謙を讒言により失脚させ後任として南町奉行となります。

南町奉行 鳥居耀蔵の市中取締りは厳しく、権謀術数に長け、おとり捜査を常套手段とした為、人々からは「蝮の耀蔵」、「妖怪」(甲斐守 鳥居耀蔵を「耀蔵・甲斐守」と反転させ「耀・甲斐」=妖怪)と言われ忌み嫌われています。時代劇の典型的な悪役ですね。

 

この頃に北町奉行 遠山景元(有名な遠山の金さん)が改革に批判的で規制の緩和を図る態度をとり人気を呼ぶと、耀蔵は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させています。(遠山は鳥居失脚後に南町奉行に復帰します。)見方を変えると、上に立つ政治家が、その政策を誤らなければ、職務に忠実で、その実現に信念を持ってあたる鳥居耀蔵は非常に優秀な官僚だと思います。

しかし「天保の改革」末期、1843年(天保14年)に水野が海外情勢と政治の中心の江戸と経済の中心の大坂の十里四方を幕府が一元的に管理を考え、大名・旗本の該当する領地を幕府に返上させ、かわりに替え地を幕府から支給するという命令「上知令」が発布されます。

これが諸大名・旗本の猛反発を買い、反対派の老中土井利位に耀蔵は寝返り、水野は失脚しますが従来の地位を保ちます。 

その後、土井利位の失脚と共に復職した水野忠邦によって、職務怠慢、不正を理由に解任され、弘化2年(1845年)2月22日に鳥居は有罪とされ、全財産没収の上で肥後人吉藩にお預けから出羽岩崎藩預け替え、結局は讃岐丸亀藩に預けられ明治維新の恩赦を受けるまで20年以上お預けの身となりました 。

 

さて、江川太郎左衛門英龍ですが、1843年(天保14年)天保の改革で失脚した水野忠邦の後に老中となった阿部正弘にも評価され、1853年(嘉永6年)、ペリー来航直後に勘定吟味役格に登用され、正弘の命で品川台場を築造しています。

その台場に設置する砲を江川英龍の指導で製作のため、湯島に幕府直営の「湯島馬場大筒鋳立場」を設立しています。

しかし、従来からの製法による青銅砲であったため品質が低く、そのため欧州の先進技術を導入した新工場が計画され、1862年(文久2年)関口製造所の建設が開始、小栗忠順が銃砲製造の責任者に任ぜられました。

 一方で、鉄鋼を得るため反射炉(韮山反射炉)の建造に取り組み、1857年(安政4年)に息子の江川英敏が完成しています。 

 

江川太郎左衛門英龍は、この間も当時日露和親条約締結を求め来航しにていたロシア使節プチャーチン一の艦ディアナ号が、安政東海大地震の津波により修理のために伊豆の戸田村へ向かうも途中で沈没した為、ディアナ号にあった他の船の設計図を元にロシア人指導の下、英龍の差配で日本の船大工により代船の建造が開始されるなど、造船技術の向上にも力を注ぎました。

また、爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図しましたが、あまりの激務に体調を崩し、安政2年(1855年)1月16日に病死します。享年55(満53歳没)。

現代の会社組織でも、仕事のできる人に仕事は集中します。今でいう過労死だったのでしょうね。

 

幕府の勘定吟味役格・海防掛に登用され、高島秋帆、中浜万次郎を手代、手付として付けられた英龍は、彼らから外国の事を聞き、通商条約の裏で中国のように植民地化されるのを懸念していたようです。

そのため国防には技術革新が必要と訴え、外交・武器開発・造船・製鉄にまで自分力で何とかしようと、命を懸けて働きました。そして、更なる重き責任、勘定奉行の命を受けるため、江戸へ赴きましたが、力尽き亡くなります・・・なんと見事な男でしょう。

英龍が死ぬまで頑迷な海防論者だったという批判もあるようですが、私には、彼が当時の諸外国の外交と植民地政策のひどさを書物や万次郎などから見聞きし、その全貌を想像できる能力を持っていたがために、日本の危機を感じ、自分が背負い・守ろうとする心を感じるのです。他人が見えないものが自分には見えるという孤独感は、経験したものにしかわかりません。立派な人物だと思います。

 

また、全国パン協議会は、江川太郎左衛門英龍を「パン祖」として1953年(昭和28年)に顕彰しています。

伊豆の国市韮山にある江川邸の庭に記念碑「パン租の碑」が建ち、碑文「パン祖江川太郎左衛門」は徳富蘇峰によります。

実は、パン伝来は1543年に種子島に鉄砲と共にポルトガルからといわれており、パンの語源もポルトガル語の「pão」と考えられています。しかし、米が主食の日本には広まらず、1587年(天正15年)豊臣秀吉のバテレン追放令で、姿を消したようです。

その後の江戸時代には、長崎の出島のオランダ人向けに「白カステラ」つくられたこともありましたが、1840年(天保11年)清とイギリス間でアヘン戦争が勃発し、日本でも国防の危機感から西洋技術を取り入れた頃に、高島秋帆が兵糧として腐りやすい米飯に代わり、乾パンに着目したといわれています。

英龍(坦庵)は秋帆からパン製法を学んだようで、近年、坦庵の直筆のパン製法書が発見され、彼が初めてパンを邸内の窯で焼かせたのが天保13年4月12日と推定されることから4月12日がパン業界指定のパンの日になりました。日本にパン食が広まるのは、昭和の敗戦後にアメリカが自国の小麦を日本に輸出するために、占領下の日本の学校給食をパン食にする事で根付いたとする説を何かの本で読んだことがありますが・・・。

 

旅先で、歴史とピンバッジと共に私の楽しみの一つは、その土地の地酒を楽しむことです。英龍の江川家では、鎌倉期に大和国から伊豆へ移って韮山で日本酒醸造始めたそうで、北条早雲から「江川酒」の名を賜ったそうです。、早雲が上杉謙信や織田信長らに贈った銘酒として、また当時の田舎酒の五大銘酒として知られ、徳川家康にも献上されそうです。

しかし、江戸時代中頃には醸造されなくなり、文献がほとんど残っていないため、当時の味を再現するのはなかなか難しいそうですが、近年、地元酒販店の店主らが「現代の最高の技術と原料で江川酒を復活させよう。」と幻の銘酒が現代に復活しています。

 

 

純米大吟醸「江川酒・担庵」です。他に、純米酒「江川酒・韮山」があります。醸造量は極めて少ないそうですが、伊豆の国市の地元酒販店で販売されています。もちろん、手に入れました。

 

「にら山の辺、江河と云里あり。江河酒とて名物なり。」貝原益軒

 

さて、秋の夜長に楽しみが一つ増えました・・・。

 

出典、参考文献・HP

静岡県大型観光キャンペーン推進協議会HP

伊豆の国市HP

SAKETIMES

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