2019/2/3(日)

オーストリアと日本は、1869年に修好通商航海条約を締結して外交関係を樹立(当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国)し、正式に外交を開始して、2019年で150周年となります。
 
日本オーストリア友好150周年公式ロゴは、2009年の国交樹立140周年の際に作成したロゴをベースにしたもので、日本・オーストリアの双方で募集し、選定委員会で審査した結果、オーストリア・ウィーン在住のメラニー・コラーさんの作品が選ばれました。
 
左の赤い丸は日本国旗を、右の赤と白の縞模様はオーストリア国旗をそれぞれ表しています。
「デザインは、いろいろ考えて作ったというよりも、心の中に浮かんだカリグラフィーのイメージをそのままマークにしたという感じで、日本オーストリア交流年2009では、音楽だけではなく、音楽以外のオーストリアの様々な面について、特に、「人と人との交流」が深められることを期待しています。」と彼女はコメントしています。
 
採用理由として、日本とオーストリア双方の国旗をシンプルかつダイナミックにあしらい、書道の筆のタッチが芸術性を高めていることから選ばれたそうです。
 
 
オーストリアの歴史は、フランク王国の国王で、初代神聖ローマ皇帝とも見なされるカール大帝(「ヨーロッパの父」とも呼ばれ、中世以降のヨーロッパの王国の太祖)が、799年にオストマルク東方辺境伯領を設置し、その後1156年に神聖ローマ帝国に属する「オーストリア公国」になります。
やがて、1278年にはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世がオーストリア公に、以後1918年までハプスブルク家の領土となります。
その間、16世紀初頭から17世紀末にかけて、実証主義的政治により強大なオスマン帝国の侵攻を撃退し続け、三十年戦争、神聖ローマ帝国解体、オーストリア帝国に、普墺戦争の敗北を経て、1867年 にオーストリア=ハンガリー帝国となります。
 
日本とオーストリアの関係は、1873年(明治6年)6月に岩倉使節団がオーストリア=ハンガリー帝国を訪問しており、その当時のオーストリア各州の地理が、使節団書記官の久米邦武により編纂され、1878年(明治11年)に刊行された「米欧回覧実記」に記されています。
また、その年に開催されたウィーン万国博覧会開催に日本も公式初参加しています。
 
1889年(明治22年)3月、ビーゲレーベン男爵が特命全権大使として日本に着任勤務し、1892年(明治25年)2月にその後任としてハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が代理公使として東京に着任しました。
着任間もない頃に、乗っていた馬が凍った道で転んで落馬し、日本人女性の青山みつ(後のクーデンホーフ=カレルギー光子)に助けられたことがきっかけで同年3月に彼女と結婚しました。
 
二人の間には、1893年に長男ヨハン(光太郎)誕生、1894年に次男リヒャルト(栄次郎)が誕生しています。
 
その家族の物語は、1973年に吉永小百合主演でNHKで「国境のない伝記~クーデンホーフ家の人びと」として、またその後についても1987年に吉永小百合をリポーターとしてNHK特集「ミツコ 二つの世紀末」放映されています。
 
1892年(明治25年)は、皇太子フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ(後にサラエヴォでセルビア人民族主義者により暗殺され第一次世界大戦勃発のきっかけとなりました。)も来日しています。
皇太子は日本文化に大変興味を示し、1913年(大正2年)にシェーンブルン宮殿に日本庭園を造営させましたが、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊により、そのまま知る人もなく朽ち果てていました。
(地元では、アルプス庭園などと呼ばれいたそうです。)
 
1996年に新たに日本人女性によりここが見いだされ、調査が行われて日本庭園であったことが判明し、その後、日本から庭師を招き正式に枯山水の庭園が整備されています。
 
同じ1892年に、アドルフ・フィッシャーと妻のフリーダ・フィッシャーが日本に来ています。
二人は東洋美術研究家であり、後のケルン東洋美術館初代館長と二代館長となります。 
アドルフは、「明治日本印象記―オーストリア人の見た百年前の日本」、フリーダは「明治美術紀行―ドイツ人女性美術史家の日記」を著わしています。
(ともに講談社学術文庫館刊で現在でも読むことができます。)
 
かれらは北海道から長崎まで、大都市はだけでなく地方まであるき、当時の美術作家や美術蒐集家である政財界人だけでなく、市井に人々にも触れ、美術史家としての視点で、19世紀末の日本の文化、美術、芸能、また、それらを育んだ日本人についても「無類に清潔で礼儀正しい日本人」と、感じたことを今に伝えています。そして、日本に魅了された彼らは、生涯に7度日本を訪れたそうです。
 
 「明治日本印象記」の中で、フィッシャーが友人と日本女性について語るくだりがありますが、私自身の妻の事を考えると、現代の日本女性は明治のころと違い、ヨーロッパの女性のように少しは自己主張が出てきたかもしれません。
しかし、日本社会はまだまだそんな日本女性を受け入れる器にはなっていないのかもしれません。
これから社会に出る娘を持つ親としては、一日も早く日本の完全なる男女平等の実現を願うばかりです。
きっと、男性である私たちの意識に問題があるのでしょうね。
 
1910年(明治44年)11月には、日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、交換将校としてオーストリア=ハンガリー帝国の軍人であるテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐が来日しています。
 
その頃の日本陸軍は、八甲田山の雪中行軍で事故(1977年に公開された新田次郎「八甲田山死の彷徨」原作とした、高倉健主演の映画「八甲田山」で知られています。)を起こした後でした。
そこで、アルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーの弟子であるレルヒのスキー技術に注目し、1911年(明治44年)1月12日、新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)にある第13師団歩兵第58連隊営庭において、レルヒ少佐が14名の青年将校を対象にスキー(一本杖を用いたスキー術)の指導が行われました。
これにちなみ、日本では毎年1月12日が「スキーの日」とされています。
 
新潟県上越市高田の金谷山のレルヒ少佐像と後方に白く見える日本スキー発祥記念館
 
 
現在でも新潟県上越市では、レルヒ少佐の功績伝承の為、毎年2月に「レルヒ祭」が行われており、2019年は2月2日・3日の開催です。
また、2011年に新潟県のスキー発祥100周年記念の観光キャンペーン用キャラクターとして、レルヒ少佐をモデルにゆるキャラ「レルヒさん」がさん誕生し、活躍しています。
最初に新潟駅のお土産物屋さんで見たとき、髭と鋭い眼差しから、他とは違った非常に印象強いキャラクターだと感じました。
 
今回の掲載のピンバッジのデザインに込められたメラニー・コラーさんの「日本・オーストリア交流は、特に人と人との交流が深められることを期待しています。」から、過去の交流で生まれた人物、1894年(明治27年)11月16日に、オーストリア・ハンガリー帝国の駐日代理公使クーデンホーフ・カレルギー伯爵と青山光子の次男として東京で誕生したリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(日本名 青山栄次郎)に光を当ててみました。
 
 彼は19歳の学生の時に、14歳の年上の女優、33歳のイダ・ローランと結婚し、国際法学者となります。
1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公が暗殺されるサラエヴォ事件が起こり、第一次世界大戦が勃発します。
 
大戦は中央同盟国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国、ブルガリア)に対して連合国(ロシア、フランス、イギリス他)が、アメリカの介入により勝利しますが、大戦のあと、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア、オスマンという四つの帝国が滅び、戦後処理も、ウッドロー・ウィルソン米大統領の14項の平和構想は「民族自決」や新しい国境線など、政治的隷属下にある諸民族の独立への希望を高めましたが、 大陸ヨーロッパの民族的な現実に到底即しているとは言い難いもので、その多くが政治・経済的に不安定な状況に陥いりました。
 
1923年29歳の時にリヒャルトは、第一次世界大戦後の疲弊したヨーロッパの復興と繁栄の回復、平和のために「パン・ヨーロッパ」を著し、翌年にパン・ヨーロッパ会議を設立し、1926年には第一回パン・ヨーロッパ会議が開かれました。
1929年9月にはフランス首相ブリアンが、国際連盟総会の場で「欧州連邦秩序構想」の演説を行い、「パン・ヨーロッパ」実現も近いと思われましたが、ブリアンとともにノーベル平和賞を受賞し、盟友であったドイツ外相シュトレーゼマンが脳卒中で死去し、世界大恐慌が始まった影響から各国の保護主義が強まりこの運動は頓挫しました。
 
やがて、ナチスの台頭が始まり、1938年にオーストリアはナチス・ドイツによりドイツ第三帝国に併合されます。ヒトラーにとって「パン・ヨーロッパ」は邪魔であり、リヒャルトは、スイスへ逃げます。その後フランスに入りますが、1940年フランスがドイツの手に落ち、アメリカに亡命しました。
 
以後、アメリカのダレスやイギリスのチャーチルへ影響を与え1946年チャーチルは「欧州合衆国」を呼びかけました。
これは、成果を生みませんでしたが、大陸では一連のヨーロッパ統合の動きが具体化され、フランスのジャン・モネなどにより、済的統合は強められ、1967年ヨーロッパ共同体(EC)、93年ヨーロッパ連合(EU)が発足しますが、近年の移民、各国の急進右派の台頭、イギリスのEU脱退問題など、大陸ヨーロッパの複雑な状況はこれからも続くのかもしれません。
 
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの「パン・ヨーロッパ」は、ナチスの台頭により崩れましたが、それは後世の欧州連合構想の先駆けとなりました。
その後の、「欧州統合の父の1人」として、ノーベル平和賞候補にも推され、ジャン・モネとの共同受賞が強く働きかけられましたが、結局受賞することなくパン・ヨーロッパ創設50周年とされた1972年に月にスイスのシュルンスで死去しました。
 
生前のリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書や考えは、多くの日本人にも影響を与えています、日本のスーパーゼネコン5社のうちの一つ、鹿島建設の中興の祖と呼ばれた鹿島守之助もその一人です。
 
彼は、外務官僚としてドイツ駐在中にリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと交流し、「パン・ヨーロッパ」の考えに感激し、アジアの地域統合「パン・アジア」を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動しました。
また、評論家として活躍している寺島実郎は、高校時代にクーデンホーフ=カレルギーに興味を持ち、その関連書籍が高価なことから、新品でなくてもよいので譲ってほしい旨の手紙を鹿島守之助宛に送ったところ、守之介の秘書・幸田初枝が対応してくれ、寺島はそのとき送ってもらった『実践的理想主義』、『パン・ヨーロッパ』、『ヨーロッパ国民』など本を今でも大切にし、現在は九段下駅の寺島文庫ビル内の「欧州の棚」に置かれているそうです。 
 
鹿島守之助の設立した財団法人鹿島平和研究所の理想と目標である、
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの言葉
 平和は脅かされている
 平和は実現可能である
 平和は望ましいことである
 だから平和を作ろうではないか
 
1952年に出版された「自由と人生」は、鳩山一郎が公職追放中にリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書「The Totalitalian State against Man」を翻訳したものです。
その後、鳩山一郎の提唱する「友愛」は、この本が原点となっているそうです。
 
鳩山は、相互尊重・相互理解・相互扶助よって構築される「自立と共生」の社会である「友愛社会の実現」を目的に「友愛青年同志会」が創設しました。
そこには、クーデンホフ・カレルギーの、自由と平等が原理主義に陥ると人間の尊厳を侵してしまうという考えから、人間の尊厳を守るためにその理念を友愛に求めたとし、この友愛を国民全体への普及に努めるために創設したとしています。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは鳩山薫夫人の求めに応じ、友愛青年同志会名誉会長を務めたそうです。 
 
その後、日本友愛青年協会、日本友愛協会と変遷の後に現在は、一般財団法人 友愛として活動しています。また、友愛の理念は、鳩山一郎から息子の鳩山威一郎、孫の鳩山由紀夫へと受け継がれていきました。
 
また、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーは、世界平和の実現のため、仏教、創価学会に希望を抱き、1967年に創価学会の池田大作会長とも会見しています。
此の事は、クーデンホーフ=カレルギー著『美の国 日本への帰郷』にも言及され、1971年にはクーデンホーフ=カレルギーと池田会長の対談が産経新聞に連載され、1972年に対話集『文明・西と東』として刊行されています。
 
2019年の現在、アメリカとロシアのINF条約からの離脱、米中の貿易戦争ときな臭いニュースが毎日のように耳に入ってきます。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの言葉を借りると、「平和は脅かされている」状態ですが、「平和は実現可能である」のです。世界中の人々にとって「平和は望ましいことである」はずなのです。「だから平和を作ろうではないか」と思う今日この頃です。
 
オーストリアと言えば、音楽の都ウィーンとなるのですが、今回はその音楽以外での日本とオーストリア150周年に当たり、私にとって気になる人々を紹介しましたが、最後に音楽に関係する一人の女性を紹介し、この項を終えたいと思います。
 
田中路子、「MICHI」の愛称でドイツ語圏で有名だった 日本の女優、声楽家です。
1909年に、東京府神田区で日本画家・田中頼璋の一人娘として生まれ、雙葉高等女学校に学び、関東大震災後に広島英和女学校に転学しました。(当時の音楽教師は後の名女優の杉村春子だったそうです。)東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学、在学中に齋藤秀雄と不倫の噂が立ち、近衛秀麿の薦めで1930年に留学します。 
 
ウィーン国立音楽大学声楽科に入学後、ウィーンの社交界にデビューしたところ、時の財政界の重鎮でオーストリア大手コーヒー商の2代目、40歳年上のユリウス・マインル2世と出会い結婚します。
その後、夫の支援を得てウィーンを中心に歌手・女優としても活躍しますが、恋多き女性として、早川雪洲やカール・ツックマイヤー、リヒャルト・タウバー等、多くの演劇人らと交際し浮名を流します。
 
ある日、ドイツ人のシャンソン歌手で俳優・演出家ヴィクトル・デ・コーヴァと運命的な出逢いを遂げ、マインル2世と離婚、そのマインル2世を仲人に迎えデ・コーヴァと再婚します。
(既婚中に恋愛し、離婚の後に離婚相手を仲人にして恋愛相手と結婚するなんて!、マンイル2世との年の差か、人間の大きさがなせる事なのか、MICHIの愛と人格からできた事なのか、デ・コーヴァの力なのか・・・。唯々、驚くばかりです。)
MICHIとデ・コーヴァは、第二次大戦中から戦後の混乱期に多くの文化人を自邸に匿い、ナチスから擁護しました。
 
また、ヘルベルト・フォン・カラヤン、カール・ベームや、元ドイツ首相のヴィリー・ブラント、ヘルムート・シュミットとも交友があり、多くの日本人をヨーロッパへ紹介しました。(ソニーの大賀典雄、指揮者の小澤征爾や若杉弘などの人々)
1988年に78歳で亡くなるまで活躍し、1954年日本映画『花のいのちを』(大映)で山本富士子、松島トモ子と共演し、1955年には八千草薫主演のイタリア&日本合作映画『蝶々夫人』(東宝)にスズキ役で出演しました。1959年帝国劇場「オペレッタ 蝶々さん」主演、1987年サントリーホールの杮落とし公演の特別公演への出演が最後となりました。 
 
まさに、恋多き女であり大女優、いえ女傑です。
日本とオーストリアの間にはこんな素敵な日本人女性もいたのですね。
 
今回、日本オーストリア友好150周年のピンバッジをきっかけに、ヨーロッパの事、オーストリアと日本の関係、そこにいた人々の事を勉強しました。
学生時代に歴史は日本史を取っていたので、世界史の勉強がほとんどできていず、特にヨーロッパに関しての歴史の複雑さに、最初は大変だと思っていたのですが、そこにいた人々の努力や知恵、そして魅力が徐々に私の興味を掻き立て、とても面白く楽しい時間となりました。
ブログが長くなってしまいましたが・・・。
(いつも娘から、もはやブログではなくレポート!、字ばかりで読む気がしない!と指摘されています。)
 
いつの時代も、私たちは平和を求め努力しています。既述した青山光子、田中路子のお二人に、鳩山一郎の友愛の理念の普及に共に努力された妻である 薫夫人(共立女子学園理事長)を加えた三人は、ヨーロッパの立派な貴婦人たちにも勝るとも劣らない、オーストリアと縁の深い三女性として、私の記憶に残る方々です。
このような交流の末に人と人の間に友愛が生まれ、平和となればと願う次第です。
 
尚、今回の記述のきっかけを下さり、このピンバッジと出会いをおつくり頂いた、オーストリア大使館の大使閣下と文化部 オーストリア文化フォーラム の職員の方に感謝いたします。また、このピンバッジのデザインをされたメラニー・コラーさんの「「人と人との交流」が深められることを期待しています。」の言葉に沿うような、新しい二国間の人と人との交流が、記念の今年2019年に生まれることを心からお祈りしています。
 
参考サイト
在オーストリア(ウィーン)日本国大使館HP
外務省HP
オーストリア政府観光局公式サイト
台東区役所HP
一般財団法人鹿島平和研究所HP
一般財団法人 友愛HP
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戸澤英典 RCK通信 HP参考文献
参考文献
「明治日本印象記―オーストリア人の見た百年前の日本」講談社学術文庫
「明治美術紀行―ドイツ人女性美術史家の日記」講談社学術文庫
「クーデンホーフ光子の手記」シュミット村木眞寿美 翻訳 河出文庫
聖教新聞2005年9月6日「パン・ヨーロッパ運動とRCK通信のこと」
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典