6月の沖縄は、最も過ごしにくい季節であると友人は話していました。もう少し早ければ、5月の風が爽やかで、遅ければ日差しは強いが乾燥した夏だそうです。

 

 

 そんなことと知りつつ、6月初旬に梅雨の沖縄を旅しました。今回の目的は、三つです。

 一つは、沖縄の泡盛の蔵元を訪ねること。

 二つは、沖縄で開催される日本酒会に参加する事。

 三つめは、沖縄の戦跡を訪ねることでした。

 

 那覇へは、金曜日の午後に入り、那覇市内を少し飲み歩きました。泡盛の本場沖縄ですが、探せば日本酒を飲める角打ちもありました。

 

いずみや沖縄店

 

わか松

 

 翌日土曜日は、友人の運転で知念岬から沖縄の海を眺め、城跡(グスク)を訪れました。

 

知念城跡の美しい石垣

沖縄独特の野面積みの技法で作られた石垣は、時間の経過と共に自然に溶け込み美しい表情を見せてくれます。

 

 玉城城(タマグスクグスク)は、沖縄県南城市(旧玉城村)にある城跡で、1987年(昭和62年)8月21日に、国の史跡に指定されました。

 築城年代は不明ですが、石垣の積み方から約600年前のものと推定されます。現在、ほぼ完全に近い形で残る主郭跡の城壁には、自然の一枚岩を刳り抜いて造られた城門があり、あとは石敷などの遺構のみが残っています。

 本丸跡には琉球開闢の七岳の一つとされる「天つぎあまつぎ(雨つづ天つぎとも)御嶽(うたき)」があり、かつては東御廻り(あがりうまーい)という巡礼行事の聖地となっていたそうです。

 沖縄のグスクは軍事的なものというより祭祀的性格も持っていることが指摘され、玉城城も城としてより、宗教的要素が大きかったのではないかと考えられています。

 

 近くには、沖縄の聖地である斎場御嶽と久高島がありますが、昨今のパワースポットが好きな方々とは考え方が異なり、私はそんなものはないと思っています。

 古人が大切にしていた祈りの場やその対象物には、思いが強く込められているのであり、敬意を払い、迂闊に近づくものではないと自分を戒めています。

 今年65歳になりますが、これまでの経験から、その場が自分を受け入れてくれ、また自分に必要があれば、気が付くと、おのずとその場に立つものであると感じています。

 今回の沖縄の旅も今の自分に必要であり、例えば斎場御嶽は休息日で立ち入ることはできませんでしたが、まだまだ沖縄の事を深く知らない自分にとっては当然の事と受け止めています。

 

 その後、友人につれられて沖縄本島南部・南城市知念にある日本最南端にある南城美術館を見学し、併設の伴山カフェで昼食となりました。

 

小出ナオキ「狼飾 頭像」Head with Wolf Finial

 

 海の見えるとってもおしゃれなカフェへ、場違いな65歳の爺二人で行ったのですが、後日、友人と奥様がランチタイムを楽しむための下見に付き合わされたのでした(笑)。

 

 そして、その日の第一の目的である泡盛の蔵元を訪ねました。忠孝酒造株式会社は、沖縄県豊見城市に本社を置く酒造です。

 代表銘柄は「忠孝」で、豊見城市・糸満市を中心に沖縄本島南部に愛飲家が多いそうで、この蔵元の特徴は、窯を保有し、自社で泡盛熟成用「忠孝南蛮荒焼甕」という素焼きにこだわった酒甕造りを行っています。

 蔵では、色々なお会話を伺いましたが、私の中で泡盛の面白さを日本酒と比較すると、日本酒は、新酒の頃に蔵ごとの味わいの違いが際立っているように私は感じています。

 一方で泡盛は、アルコール度数が高いが故か、新酒よりも熟成させることで風味が増し、蔵ごとのより深い味わいを楽しむことができるようです。

 日本酒も最近は古酒を楽しむ方が増えてきましたが、泡盛は3年以上貯蔵したものは古酒(クース)と呼ばれ、飲み手自らが熟成を楽しみながら育てるのだそうです。

 おもしろいですねぇ。

 

 次の日は、いよいよお酒のイベントです。

 すでにリタイアして6年近く、日本全国をあちらこちらと飛び回る私と違って、65歳になっても沖縄で単身赴任で家族と会社のために頑張っているMクンに、彼の好きな日本酒を堪能してもらおうとイベントのチケットを取りました。

 2024年6月9日(日)開催「地酒巡業」ロワジールホテル&スパタワー那覇 です。東京で地酒に特化した商いを手掛ける利田屋(かがたや)酒店さんが、沖縄・那覇でで開催するイベントで、日本全国の酒蔵10社・ワイナリー8社が参加し、計54種類の日本酒とワインの飲み比べが楽しめます。

 

 参加酒蔵も日本酒蔵/田酒(青森)、AKABU(岩手)、ロ万(福島)、たかちよ(新潟)、無想(新潟)、鏡山(埼玉)、大信州(長野)、紀土(和歌山)、東鶴(佐賀)、ちえびじん(大分)

 日本ワイン蔵/ふらのワイン(北海道)、葡蔵人(東京都)、中央葡萄酒(山梨)、シャトー酒折(山梨)、フジクレール(山梨)、五一わいん(長野)、北条ワイン(鳥取)、都農ワイン(宮崎)と厳選されたラインナップです。

 

 私は、いつものように日本酒ピンバッジをたくさんつけたベストを着て受付近くにいますと、可愛らしい女性が声をかけてくださいました。「日本酒のピンバッジですか、カワイイ!」この年になると女性から声をかけられることなど無いのですが、褒められてうれしくなった私は、簡単に日本酒ピンバッジの事を説明し、また会場内で乾杯しましょうと別れました。

 後刻、会場内で再会した先の女性を含む4人グループと乾杯し多いに盛り上がったあと、親父二人は若者たち共に二次会へ流れ込んだのでした。

 私の人生の後半生のテーマは、「若者を応援する」としていますが、見知らぬ若者たちと出会い、乾杯できるお酒のイベントは本当に楽しいものです。

 酔っぱらっていて、この日の画像がありません(笑)

 

 さて、月曜日は友人とも別れ、三つめの、沖縄の戦跡を訪ねることを目的として、レンタカーでの単独行動をする日です。前夜のお酒のため、ゆっくりと朝寝をしてスタートしました。

 

 最初に「道の駅いとまん」で昼食です。併設する糸満おさかなセンターには、沖縄らしいカラフルな魚が並べられており、ランチタイムは視覚と味覚で楽しみました。

 

 そして、いよいよ今回の旅の主目的の地に訪れました。

 その地に足をつけたとたん、目の奥から熱いものがこみ上げてきました。入り口で献花を求め、塔の前の祭壇に捧げ手を合わせると、目の前に、沖縄陸軍病院の第三外科が入っていたガマ(伊原第三外科壕)が口を開けていました。

 心が震え、下を向くと涙がポタリポタリとメガネのレンズの内側に落ち始めました。

 

 慰霊碑「ひめゆりの塔」の名称は、当時第三外科壕に従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいます。

 その名は、学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉「姫百合」で、戦後ひらがなで記載されるようになったそうです。

 

 慰霊碑の左奥にひめゆり平和祈念資料館があります。

 

 資料館は、ひめゆり同窓会によって1989年(平成元年)6月23日、沖縄戦と平和伝えるため設立されました。

 ひめゆり学徒隊が体験した沖縄戦を証言映像や当時の写真、壕の模型などを通して伝えています。

 特に、亡くなられた学徒の一人一人のお写真と、その下に、生き残った友人の方達が、その人柄や最後の模様を綴った文章を読ませていただいたのですが、途中からハンカチが離せなくなりました。

 実は、このひめゆり平和祈念資料館は、2004年(平成16年)、20221年(平成33年)と二度にわたるリニューアルが行われています。

 生き残った学徒たちを中心に建てられたこの資料館を作る過程で重要視されたのは、「教育」と「殉国美談にしないこと」だったそうです。

 いわゆる戦中の軍国主義教育のように若者たちを戦場に駆り立てることに疑問を感じないように洗脳していく事、戦場で死ぬことが尽忠報国と賞されたり、美談とされることを問題視したのです。

 彼女たちは、決して国に尽くし美しく散った純真無垢な少女たちではなく、悲惨な戦場で苦しみながら死んでいった、その戦争の実相を伝える為の展示を望んだそうです。

 

 何故なら沖縄戦では、首里にいた日本軍(第32軍)司令部は米軍が迫ると島南部へ後退し、それとともに学徒たちが手伝っていた病院も移動します。

 そして、なによりも悲劇的であったのは、彼女たちはそこで、軍から病院の解散を告げられ、米軍の爆撃の中で放り出されたのです。ここから、沖縄県立第一高等女学校・沖縄師範学校女子部から動員された240人(教師18人含む)のうち136人(教師13人含む)が命を落としました。

 ひめゆり学徒隊の悲劇は、再びこの国が戦渦に巻き込まれないように、当時の軍のありかたと教育・戦争の悲惨さを伝えなければならないという生き残った彼女たちの強い意志が感じられる所でした。

 

 2006年(平成18年)、約60年ぶりに教育基本法が改正されました。戦後、戦時中の教育の反省をふまえ1947年(昭和22年)に制定された教育基本法(旧法)すべてを改正したものです。 この改正が、教育の多様性や自由を制限する可能性、つまり愛国心や特定の価値観を強制する可能性など、政府による教育への過度な介入を招く可能性を否定できないことに懸念がもたれています。

 

 その後、何が「秘密」に指定されるのかの範囲があいまい、国民の「知る権利」への配慮が不十分、秘密指定の半永続的な更新が可能、内部告発などがしにくくなるという問題を抱えたまま、2013年に特定秘密保護法案が可決されました。

 

 また、政府は2014年7月1日の臨時閣議で、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を限定容認することを決定しました。

 

 更に2024年3月26日政府は、英国、イタリアと共同開発する次期戦闘機の日本から第三国への輸出を解禁する方針を閣議決定し、国家安全保障会議(NSC)で武器輸出ルールを定めた「防衛装備移転三原則」の運用指針を改定しています。

 

 今年4月に岸田文雄首相が訪米した際、日米両国の共同声明で自衛隊と米軍の「指揮統制」の連携強化を打ち出しました。指揮統制の連携強化の目的を「(米軍と自衛隊の)作戦と能力のシームレスな統合を可能とするため」としており、「有事には実質的に米軍の指揮統制下に自衛隊が組み込まれることになる」との指摘があります。「指揮統制機能の一体化が進めば、米国の判断で始めた戦争に自衛隊が追認して出動するほかなくなる」との懸念がたかまっています。

 

 更に、高市早苗経済安保相のもと、経済安全保障上の機密情報を扱う民間人らを身辺調査するセキュリティー・クリアランス(適性評価)制度の導入を柱とした重要経済安保情報保護法が5月10日、参院本会議で可決、成立しました。

 

 現在、ウクライナ紛争の中でロシア連邦がウクライナへの全面的な軍事侵攻中です。ロシアのプーチンがウクライナへの「特別軍事作戦」を開始すると述べ、それに伴い首都キーウをはじめ、ウクライナ各地への攻撃が開始されました。

 日本政府は西側諸国と同様にロシアによるウクライナ侵略であるとの立場ですが、ロシア側は国連憲章第51条の集団的自衛権を主張しています。

 

 かつて、日本国内で防衛予算を獲得するために恐怖を煽るストーリーとして語られてきた『中国の尖閣諸島侵攻』ですが、これが現在では「東のNATO」にあたるインド・太平洋地域の実質的な集団的自衛権体制の構築に向かっているといえるのでは? つまり、「仮想敵国」はNATOにとってはロシア、日本などにとっては中国ということになるようです。

 一方で、政府が2023からの5年間の防衛費を43兆円と大幅増に関し、それ以外にも、期間中に新規契約する装備品購入費で28年度以降にローンで支払う額が16兆5000億円あるため、実際の規模は60兆円近くに膨れ上がっているのです。

 

 この国は、すぐそこまで戦争の足音が聞こえ始めているような気がします。

 

 国民の権利・自由を守るため、国がやってはいけないこと・やらねばいけないことについて国民が定めた法律、この国の最高法規である日本国憲法を守ろうと話すだけで、政治的な発言と揶揄される現在の風潮にとても違和感だけでなく、危機を感じています。

 

 来年2025年は戦後80年となります。

 いつまでもアメリカ合衆国の年次改革要望書に従う何も考えない国のままでいてよいのでしょうか?

 また、日米地位協定の25条の規定に従い、政治家は参加せず省庁から選ばれた日本の官僚と在日米軍のトップがメンバーとして月2回、協議を行う正式な協議機関として設立されている日米合同委員会は本当にこのまま継続していていいのでしょうか?

 

 「日本は、アメリカの植民地である。」というお話を海外の方から聞いたことがあります。「バカな、そんなことはない!」と思うのですが、あまりにも日本国総理大臣がアメリカ合衆国大統領の言いなりになっている姿や、アメリカ企業のメリットになるような法改正、日本の食の自給率に影響する種苗法改正になどを目の当たりにすると、日本の与党政治家は日本国民のために政治しているのか?と思います。

 

 いま、先人たちの苦労をもう一度思い出し、自分たちで考える国を目指す必要があるとあらためて思う爺です。

 今回入手した、この「ひめゆりのピンバッジ」に込められた平和へのメッセージ、先人たちの心を大事に思い、身に着けることで共有したいと思います。

 

 沖縄は、私たちの未来を考える戦跡が残された島でした。

 

出典、参考文献・HP

東京新聞

毎日新聞

忠孝酒造HP

利田屋(かがたや)酒店HP

ひめゆり平和祈念資料館HP

イミダス・集英社HP