私のピンバッジの発信は、このブログと並行してインスタグラムで行っています。
ある時、私のインスタにメッセージが来ました。
「突然のメッセージすみません。 私 奈良豊澤酒造の〇〇と申します。弊社の取り組みで 日本酒ピンバッジを作りたい と考えてまして。 あなた様が もしお作りになる方なのであれば ご相談したいです。お返事よろしくお願いします。」
奈良豊澤酒造さんは、1868年(明治元年)豊澤儀助さんが大阪玉造にて酒卸業の創業したことからの始まります。
その後、1887年(明治20年)頃に酒造業に進出し、灘(神戸市)、伏見(京都市)、奈良、泉南尾崎(大阪府)、里庄(岡山県)で清酒酒造業を始めます。
やがて、1935年(昭和10年)頃には二代目の儀三郎さんが、酒蔵を現在の酒造場のある今市町に移転し、1941年(昭和16年)には戦時統制経済体制のために、酒造業者の整理統合が進められ、奈良に集約されますが、1945年(昭和20年)以降には伏見(本家)が豊澤本店として独立し、灘豊澤酒造と奈良豊澤酒造が個人企業として独立します。(灘の豊澤酒造は阪神淡路大震災で被災し、1997年に福壽酒造とともに神戸酒心館を設立しました。)
3代目の儀雄さんは、戦後の食糧不足のなか、配給されるわずかな米で酒造りを行い、酒蔵を守っていましたが、1955年(昭和30年)戦前に経営していた清酒の卸業を廃止し、 その年の10月には、個人企業を改組して、奈良豊澤酒造株式会社を設立しました。
1979年(昭和54年)に、後に4代目となる安男(当時、専務)さんが杜氏を求めて但馬へ向かい、そこで、後年(平成14年)「現代の名工」に選ばれる但馬杜氏の藤沢忠治と出会い、奈良豊澤酒造に招きます。そして、「酒は生き物だから対話を大切にしたい」と考える藤沢杜氏流の酒造りが、 奈良豊澤酒造の身上となるのです。
1984年(昭和59年)4代目の安男さんが代表取締役社長に就任し、1990年(平成 2年)には平成2年度全国新酒鑑評会で「大吟醸 豊祝」が金賞受賞し、この年より連続5年金賞を受賞、その後も受賞歴を重ねて奈良豊澤酒造の主銘柄となっていきます。
さて、日本酒のピンバッジの製作ですが、2024年からの二年間は私自身の体調が芳しくなく、それまでのようには、あまり積極的に日本酒ピンバッジの活動をしていなかったのですが、2026年の三月で治療が一段落した時にタイミングよく頂いたこの依頼に、とても嬉しく思いました。
早速これまでのように、ピンバッジの作り段取りを奈良豊澤酒造さんへお伝えしました。
まずは日本酒ピンバッジのデザインからです。
酒蔵さんのロゴや何種類かの銘柄のラベルと画像をお送りいただき、ロゴ・ラベル・ボトル・菰樽の形を選び、その中から何パターンかのピンバッジデザインを作ります。
その段階で、デザインから製作コストを勘案し、疑似七宝・スタンププレス、オフセット印刷など製法を検討します。出来上がった日本酒ピンバッジのデザイン数点を蔵元さんへお送りし、選んでいただき、デザインが決まれば、見積もりが出て、制作に入り、おおよそデザイン決定から30~60日程度で完成です。
そうして出来上がったのが、今回の奈良豊澤酒造 大吟醸「豊祝」ボトル型ピンバッジです。
久しぶりの日本酒ピンバッジの作成なので、あれこれと考え、とても良い味わいのあるピンバッジになったのですが、結果的に少しレトロ感のある渋いものになりました。
これはこれでとても魅力的なのですが、華やかさとリアルさに欠けるのではとも思い、もう一つのバージョンも制作しました。したがって今回は二種類のボトル型ピンバッジ、奈良豊澤酒造 大吟醸「豊祝」ボトル型ピンバッジ、レトロバージョンとリアルバージョンができたのです。
大人の魅力と華やかな美しさのリアルバージョン。
どちらも甲乙つけがたい二つのピンバッジです。
今後この二種類のピンバッジをどのように活用され皆さんの手に届くのかは奈良豊澤酒造さんのお考え次第ですが、このブログをお読みの皆さん、どうぞチャンスがあればこの素敵なピンバッジをゲットしてくださいネ。
出典、参考文献・HP
奈良県庁HP
奈良豊澤酒造HP
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