名古屋は、私が営業マンとして仕事のイロハを学んだ街です。

 会社に入社し、大阪支店から勤務を始めた私は、上司の気持ちを忖度せず会議でも思ったことを言う、場の空気も読まない、とても扱いづらい部下だったのだと思います。直属の   上司である課長は、体育会的な気質で、支店全体が同様の雰囲気でした。

 朝は体操から始まるのですが、隣の部署の課長が大阪体育大学出身で、NHKのラジオ体操を変則的にアレンジしたのを大阪支店の体操として実践していました。

 これが中々覚えられず「体操すらまともにできないお前が・・・。」なんて感じで、何だかんだと言われるので、自宅で体操の練習をしたことを思いだします(笑)。

 

 特に本社から事業部トップの役員が来て大阪支店で開催する会議などでは、支店長や課長の顔色を窺い、みな押し黙っているのですが、製品の欠点や、販売ツールの不備、デザインや色など営業先のお客様から頂いた意見を普段の報告書で訴えても本社に届かないので、ここぞとばかりに発言する私が、上司や先輩からは小憎らしい若造に思えたのでしょう。

 今思えば、会社内の組織や力関係など何も知らずに、唯々正論を上層部にいう面倒なやつでした(笑)。

 

 そんな若造の最初の担当先は北陸三県(福井・石川・富山)でした。もちろん、上司の課長や先輩は基本的なことのみで「あとはお前の思うとおりにやれ。」と、部下の能力を自由にさせて伸ばすみたいな事を支店長に言い、びっくりするくらい放任されました(笑)。

 昭和の会社の営業マンには販売計画つまり、ノルマがあり達成できないと、まさに月次会議で吊るしあげられます。

 大学を出て、営業のイロハも知らず、自分の能力を磨きながら、自社の業界内での自社の立ち位置、製品評価、これまでの担当エリアでの浸透状況を確認分析するまで3年近くかかりました。本当に苦しみ、オフィスが新大阪近くにあるのですが、上空に伊丹空港へ向かう飛行機が見えると、会議が近づく月末になると、あの飛行機がオフィスのあるビルに突っ込めばいいのにと何度思ったことか。(後年アメリカで想像したことが実際に起こり、背筋が寒くなりました、反省しています。)そのくらい、苦しんだ三年間でした。

 

 やがて、ある程度の力が付き、北陸の方々にお教えいただきながらノルマが達成できるようになったころに名古屋を担当する事になりました。

 

 名古屋は、上司の課長が担当していたエリアで、それなりの大きい販売計画を立てる地域でした。当時の名古屋エリアの有力販売店は、量販店はU社、ホームセンターはK社でした。さすがに上司も不安に感じたのでしょう、量販店は先輩、ホームセンターは私にと分けて担当させたのです。

 また、担当した一年目は上司も商談に参加しました。しかし上司は、自社の売れ筋商品を明らかに欠品するシーズンに投入する計画を立て、私にフォローさせたのです。私は、上司にその危険性を伝え反対しましたが、上司は何とかなるの一点張りでした。

 当然欠品します。上司は逃げ、責任は担当である私です。取引先担当は烈火のごとく怒り、販売機会ロスについて言及します。決裁をする側の上司は、会社側の立場でものを言い、私は取引先と自社のあいっだで板挟みになり、神経性胃炎・皮膚炎・不眠症となりましたが、そんなことは取引先には何の関係もありません。結果、取引先への出入り禁止となりました。

 

 出入り禁止となっても、社内での担当は私です。

 上司は何とかしろと言うばかりで突き放されます。

 何度もお詫びに行きました。朝一番に伺いお詫びしたいと申し入れし、応接室でひたすら待ち続けます。もちろん、取引先の担当課長はお会いしてくれません。それでも夜までひたすらお待ちしていると、担当課長さんの隣の部の課長さんが応接室に入ってきたのです。

 その課長は、言いました。「俺は、お前がウチを担当してから、様々な現場で一生懸命なお前のことを見ていた。また、ウチの会社の受付から配送している人間まで、お前のことを悪くいうやつはいなかった。今回の一件も、実は商品選定の段階で、欠品するのではと担当課長が言っていたが、お前の上司が大丈夫であるというので、半信半疑で採用したのだ。しかし、担当はお前なんだ。お前が、どうすべきで有ったか考えて、もう一度来い。担当課長との面談は、俺が段取りしてやる。」

 

 後日、担当課長との面談で、「担当は私です。私が悪かったのです。今後はすべて担当の私一人の責任で商談させてください。」以降、上司は連れてこないと頭を下げました。

 

 今は、その取引先の担当課長も隣の部の課長も鬼籍に入られましたが、お二人が私の土台を作ってくれた恩人です。

 その後は、まったく関係ない分野の商談会などにも読んでくださり、価格とは何か、良い製品とは何か、ホームセンターだけでなく販売店とは何か、販売店の視点、商社の視点、消費者の視点まで様々なことをお教えいただきました。

 会社員として、営業マンとして、メーカーの営業マンとして、ついには人間としてのビジネスに関する哲学を私は名古屋の方々から学びました。

 お蔭で、それ以降は、どんな業界でも、どんな場所でも、営業マンとして誰にも負けない自信をもって仕事することができました。本当に、心から感謝しています。私は自社の中でなく、社外のお客様から育てていただいた営業マンでした。ただし、ますます上司や経営者に忖度しない営業マンになりましたが(笑)。

 

 ピンバッジは、愛知県名古屋市中区の広小路通に流れる堀川に架かる橋「納屋橋(なやばし)」です。

 初代は、福島正則が1610年(慶長15年)の名古屋城築城とともに堀川が開削された際に架けられた「堀川七橋」の一つです。1913年(大正2年)には木橋から鋼製アーチ橋に架け替えられ、現在の橋は橋長は27 m、幅員は30 mで、当時の面影を残し1981年(昭和56年)に架け替えられました。

 名古屋市が設立した「名古屋まちづくり公社」は、名古屋歴まちネットの活動として、名古屋市の景観重要建造物を、「名古屋歴史的建造物モチーフピンバッジ」にして保存と活用の啓発活動をしてます。とくに「納屋橋」のピンバッジは、遠近感や奥行きを袂から捉えたイラストで忠実に再現した、とても素敵なピンバッジです。

 名古屋の担当の頃は、この橋の近くにある名古屋クラウンホテルを定宿として、展示会があるときなどは一週間くらい連続で滞在していました。川沿いには昔の風俗街の面影がまだ残っていましたが、20代の私は潔癖症で純真でした(笑)。

 仕事の後に、納屋橋のたもとにある「宮鍵」で、一人ひつまぶしを頼むほど懐は豊かではなく、鳥のワサビあえでビールを飲み、鳥丼を食べ、近くのビルの中にあった映画館で『 男はつらいよ 』を見ていました。

 

 

 自社の人間と合わず、お客様の近くで学ぶ、出張先での一人の時間がとても楽しかったです。

 群れない、アウトローの会社員になっていったのでしょうね、その後、営業所長になったり、東京本社勤務になったときの自社の人間や経営者との時間が、とてもストレスを感じるものでした。

 

 会社をの卒業して、今、気ままに全国各地を旅しているのは、ふうてんの寅さんに憧れたあの頃を取り戻しているのかもしれません。先日、名古屋の「宮鍵」で鳥丼とわさびあえを食べました、お店の勘定場にいた小柄で怖そうな女将さんはもういませんでした。その頃女将さんにいつも叱責されていた大柄の女性が、勘定場に・・・。時は流れました。鳥丼のお肉も、少し小さくなったような・・・、物価高と円安の影響かなぁ・・・。

 

 年に数回ですが、今年から年金生活者になる私は、名古屋で飲んでいます。私の現役時代の営業マンとしての力の礎を与えてくれた、名古屋のあの人やこの人を思い出しながら、この地で、酔える幸せを噛締めています。

 

 ありがとう、名古屋、大好きです。

 

 もし、栄や、伏見の地下街や、名古屋の駅付近で呑んでいる日本酒ピンバッジを付けた爺がいたら、お声掛けください。ともに乾杯いたしましょう。

 

出典、参考文献・HP

名古屋市役所HP

中日新聞

名古屋歴まちネット

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』