2024年6月2日(日)放送のフジテレビ 『ザ ノンフィクション』
【私のママが決めたこと~命と向き合った家族の記録~】を観ました。
「私だって生きられるなら死にたくない」…そんな思いを抱えながら命の決断をした母がいる。
みなさんの中にも、ご覧になった方がいらっしゃると思います。
これはリアルな映像なのかと、私はとても衝撃を受けました。
夫と2人の娘と暮らすマユミさん(44)
3年前、マユミさんに子宮頸がんが見つかった。
抗がん剤治療などを尽くしてきたものの、がんは再発を繰り返し、全身に広がっていった。
そして脳への転移。
耐えがたい苦痛の中で、彼女は日本では合法化されていない“安楽死”をスイスで実行するという選択肢を考えた。
安楽死は、日本では認められていない。
スイスでは“安楽死”は合法で、外国人にも許されている。
悩み抜いた末にマユミさんは、スイスへ渡ることを決断する。
苦しんできた母の決断に対し、家族は戸惑いながらも受け入れた。
最期の日の前に、夫婦でスイス観光を楽しんだ。
いよいよその日が来た。
ベッドの横で静かに見守る夫。
そして、スマホにはテレビ電話でつないだ娘たち(18歳と12歳)。
自らの手で致死薬の入った点滴のバルブを開け、愛する家族に見守られながら、穏やかに目を閉じ、最期の時を迎えました。
自ら人生の幕引きを決めた母の決断に向きあった家族の記録。
やはり最期の言葉は「ありがとう」になるんですね。
マユミさんは、「私だって生きられるなら死にたくない」という言葉を残している。
安楽死の前夜には「心が張り裂ける思い」と涙を流した。
マユミさんは、どんどん体が蝕まれ、痛みもひどくなっていく中で、娘たちのためにもという思いで、とにかく生きる努力をものすごくしたという。
がんがすごいスピードで大きくなっていき、脳に転移してから急に目が見えなくなってきたり、体の支障も感じていて、命を延ばす緩和治療を、自分がしたいとは思えないと考えたという。
マユミさんが亡くなったのは午前中で、夫は仕事の関係もあり、その日の夜の便で帰国。
そこから早く離れ、子どもたちが待つ家に帰りたい気持ちはすごく理解できます。
同行したTV局のディレクターは、
「あの日ご主人は受け止めきれていなかった印象があります。
“これで良かったんだよな…”、
“さっきまで元気だったのにな…”と、
独り言のようにずっと言っていて。
やっぱり最後までいろんな葛藤があったでしょうけれど、それは当事者にしか分からないことだと思います」と語っています。
マユミさんが残した「私だって生きられるなら死にたくない」という言葉はとても重いですね。
安楽死や緩和治療の賛否はともかく、それぞれが最良と信じる生き方や死に方が尊重されるといいなと考えます。
私の夫の緩和治療での最期は、今思い出しても非常にやるせないものでした。
緩和ケアというと、終末期にある患者さんとその家族が受けるものという印象がありますよね。
最近では、緩和ケアは病気の進行にかかわらず、いつでも開始することができる患者さんの生活の質を向上させるアプローチだと医療機関の人は説明します。
でもやはり、後戻りのできない場所だったと考えます。
夫は、緩和ケアをスタートした途端、痛みや他の不快な症状をコントロールするため、24時間薬物療法(鎮痛薬、抗うつ薬、抗不安薬など)を投与され眠り続けました。
最期の10日は、意識が戻ることはなく、どんな気持ちで亡くなったのか5年経った今も考えます。
食事を取ることなく、栄養を点滴で送り生かされます。
時々痰が絡まるのか苦しそうにもがきます。
薬が入っているので苦しみを本人は感じていないと医師や看護師はいうが、本当か?
自分で経験していない、机の上の知識でしょ?
意識が少しでもあるのなら、この状態は地獄だよね。
延命治療をするか医師達から’尋ねられるたび、「うるさい!気持ちが決まりません!」と食ってかかり
奇跡はありますよ!気を落とさないでと慰めるカウンセラーには
「あなたは奇跡をみたことがあるんですか?」と行き場のない怒りをぶつけていました。
癌の末期の痛みや苦しみ、せん妄や大暴れを見ているのも苦しいが
自然と枯れ果て、その時が来るのを待っているのもどうにも苦しい。
看取るご家族によって考えが違うのは、理解しています。
患者自身やその家族のできる選択肢は、意外に少ないように思われます。
残された家族は、“これで良かったのか…”とう気持ちが多かれ少なかれ残るように思います。
患者自身の強い意志があるのなら、それに従うほうが家族は気持ちが楽かもしれません。
夫の命日が近いこの時期には、死について考えることがあります。
最期までお読みいただき、ありがとうございました、