藤原道長は、平安時代中期の貴族であり、2人の妻と5人の妾を持っていたといわれます。
その中でも、源明子(みなもとのあきこ)は彼の第二の妻でした。
彼女の生き方から、現在でも参考になる賢い結婚生活のヒントを考えることができます。
源明子は道長の1歳上。
道長の正室・源倫子は道長の2歳上でした。
明子の生涯は逆境に立ち向かい続けた勇気ある女性として知られています。
明子は醍醐天皇の皇子である左大臣・源高明(たかあきら)を父に持ちました。
明子が5歳の時、父の源高明は左大臣の高位にありましたが、安和2年(969年)に謀叛を密告されて失脚。
この事件を「安和の変」と言い、以来源明子の人生に影を落とします。
源明子は叔父の盛明親王(醍醐天皇の第十五皇子)に引き取られ、その養女となりました。
父の高明や養父の盛明も亡くなると、東三条院こと藤原詮子(道長の姉)に庇護されます。
親の社会的地位が子どもの出世に影響していた当時、後ろ盾をなくしてしまった明子は、非常に辛い立場にあったと考えられます。
明子は道長の「もう一人の妻」として、正妻倫子と同じく四男二女を授かるなど、
彼の栄華を支えました。
明子の逆境からスタートした人生は、養育者に恵まれ、道長と出会い、華麗な生涯を送ったことで知られています。
元々は、正妻の倫子より高貴で身分が高かったのですが、源明子には倫子と違って強固な後ろ盾がなかったため、妻としての格は低くおさえられ、子供たちも相応の地位に甘んじるよりなかったといわれています。
当時の貴族社会では政略結婚が一般的であり、愛情よりも政治的な要因が結婚に影響を大きく与えました。
ドラマによると、倫子は結婚する前から道長を見初めていたという設定になっていますが、道長は、結婚するまで倫子に会ったことがなかったようです。
明子は24歳前後で道長の側室となります。
詮子の同母兄弟である道隆、道兼、道長がいずれも明子にラブレターを送って求婚したが、
詮子のお眼鏡にかなった道長だけが明子のもとに通うことを許されたと『大鏡』に記されていたようです。
明子は、とても美しく、魅力的な女性だったのでしょうね。
明子は道長を愛していたのでしょうか?
ドラマでも描かれていましたが、明子は父の源高明が政変で追い落とされ、幼くして後ろ盾を失った不遇の身でした。彼女は藤原一族に対する恨みを抱えていたことは明らかです。
しかし、彼女は道長と結婚し、多くの子供をもうけ、道長の栄華を支える「もう一人の妻」として生き続けました。
源明子は、家族を支え、藤原道長の政治的な野心を支援する重要な役割を果たしたとされます。
彼女の存在もまた、藤原道長の成功にとって欠かせないものであったといわれます。
平安時代の貴族社会において、女性が結婚に関して拒否することは非常に難しかったようです。
結婚は家族や家同士の関係を強化するための重要な手段であり、個人の意志よりも家族の利益が優先される傾向が強かったからです。
源明子が夫の藤原道長にどんな気持ちを抱いていたかわかりません。
道長は正室との子とは明確に差を付け、娘たちの嫁ぎ先も大きな格差があったといわれます。
子ども同士の間では、揉め事や葛藤があったようです。
明子は醍醐天皇の孫という誇りや失脚した源高明の娘という負い目など複雑な感情、背景はあるにせよ、側室の立場にそれほど屈折した感情は持たなかったといわれます。
いや、見せなかったのでしょうね。
結婚は、仕事
結婚は、生きるすべ
そんな覚悟が見えます。
明子は、自分の感情に振り回されて収穫を手放すようなことをしない賢い女性のように見えます。
幼少期の逆境を乗り越え、詮子の厚遇ぶりや道長兄弟がそろって熱を上げた逸話からも、人をひきつける魅力を持ち、生まれながらに華のあるキャラクターだったと想像できます。
人の可愛がられる「人たらし」スキルを身に着け、我慢強く力強い女性。
そんなイメージです。
明子は85歳、正妻倫子は90歳の長寿を全うしました。
紫式部は、道長の妾の一人ではないかといわれています。
恐るべし!
道長の周りの女性は、ただ物ではない強者そろい!
最期までお読みいただきありがとうございました。