母が脳梗塞を起こし、入院してから、私達姉妹は、母と暮らすことを決めた。


不安はあったが、いいきっかけでもあると考えた。


母の友人にも協力してもらって、母を繰り返しそう諭してくれるよう頼んだ。


母にも繰り返し、「一緒に住もう」と言い続けた。




私達には邪魔者がいたからだ。



母には連れ合いがいた。


この時私達には、こいつが敵だった。


正確には、最初から敵だった。






ここから先は、不幸自慢のような内容になってしまう。




私達兄妹には、母の他に、もちろん父もいた。



私達はとある漁師町の3代続くちょっとだけ老舗の仕出し料理店に生まれた。


父は長男で後継ぎだった。母も一緒に働いていた。


割と裕福だった。


私はよく知らないが、バブル期だったこともあってか、父も母も、朝から晩まで、とても忙しく働いた。


私達の住む家は、大きかった。


セレブではない。


住まいと、宴会場が併設していたからだ。


仕出し店には、身内だけでなく、たくさんの板前と女中さんがいた。


本店である仕出し店で父含むたくさんの板前が料理を作り、宴会場である私達の住まいの場所で、法事や結婚式、宴会などをする、母はそこの若女将だった。


前記したが、セレブではないので、母と父は朝から晩まで働いていた。


私達はそんな母と父の姿を見て育った。


父は博打が好きだった。パチンコなど、可愛いレベルではない。


掛け麻雀、ポーカー、ノミ競馬、そして酒。


後から知ったが、当時から相当の借金があったらしい。


そして、父の最大の博打は人生そのものだった。


父は30代で商売を大きくした。


大きなレストランを作った。


同じ敷地内に、寿司店も作った。ビアガーデンも作った。


バブル真っただ中だった。


子供目にも、商売は上手くいっているように見えた。父は料理長であり、社長だった。



その父の作ったレストランに支配人としてやってきたのが、私達の敵、Aだった。





父はどちらかというと寡黙なひとだった。普段はあんまり喋るタイプではなかった。かといって黙々と仕事ばかりしているタイプでもなかった。


酒と博打は好きだが、酒癖が悪かった。暴力は振るわないが、飲んで帰ってくると、皆を起こしてくどくどと説教を始める。

だから酔って正体をなくす父がキライだった。




犬を飼っていた。


レオンという名の雑種だった。


ある冬の夜だった。その日は吹雪だったので、レオンも外では寒いだろう、と兄が玄関に入れて、私達は眠った。


深夜になると父が大酔っぱらいで帰宅した。


「なんでこんなところに犬がいるんだ!」と大声を出した。


父は酔ってそのままレオンを外へ離してしまった。





朝。





玄関の前に横たわるレオンがいた。


急いで兄を呼びにいき、


兄がレオンに駆け寄った。


兄がレオンを抱きかかえ、



呼びかけると、



兄の腕の中で薄目を開けたレオンは






そのまま深い眠りにつき、星になった。



私達兄妹は激しく父を罵倒した。


それまで我慢してきた父の酒癖の悪さに、全てがキレた。


私は「レオンじゃなくて、パパが死ねば良かったんだ!!」と言ってしまった。





母はそんな父でも愛していた。


愛していると言ったのを聞いたことがある。



あいつが現れるまでは。





もう10年もたっているので記憶もあいまいだが、


数か月の治療とリハビリを経て、母は退院した。


それからは投薬治療のみだった。


医師からは「あなた方の知っている以前のお母様に戻るということはありません。」と伝えられた。


母はおそらく、先天的なもやもや病で、健常な人より明らかに脳の血管が少なく細い。


断定はできないが、おそらく生まれた時からこのような脳血管で、長い時間、何年も何十年も掛けて、

血流が足りない部分へ血液を送ろうと、細い血管が、少しづつ少しづつ、細く伸び、

さらにそこから細く枝分かれし、


いつ出血や梗塞をおこしてもおかしくない状態で49年経っていたのだろうという見解だった。


そしてまた、それはこれからも同じで、脳に爆弾を抱えているのと同じこと。


今後の発病を予防するには、脳血管をつなぐ手術しかなかった。


「今はいろんなことができなくても、発病さえなければ、少しづつ、何年もかけて、【今の】お母さんのまま、今よりは色んなことができるようになるだろう」


私達に希望の言葉を医師はくれて母は退院した。




人格は大きく変わってしまったが、攻撃性などまるでない。


母に初めて会う人は、「穏やかで優しいお母さんね」と言った。皆、母を元々そうゆう人だと思っていた。


病気をする前の母の人格を説明しても、誰も信じることなどできなかった。


そして、医師の言う通り、少しづつ、母は回復していった。


一度母を連れてデパートへ買い物に行った。


私は自分の洋服が少し見たかったから、隣りにあったキッズスペースに母を座らせ、ここで待つように言った。


そうでないと、迷子になってしまうからだ。


小さな子供が2人程おもちゃで遊んでいた。円を描くように椅子が置いてあって、その中が子供スペースになっているようなところだ。


10分程洋服を見て、戻ると、母が私に「ごめんね姉ちゃん。」と謝った。


私は謝る意味が分からなかった。


「ママがこんなんでごめんね」と涙を流した。


キッズスペースで待たせられる自分を恥じたのだ。私に対して。


私はびっくりした。そしてよく分からない感情が込み上げてきて、「なにいってるの、ママは恥ずかしくなんかないよ!誰かがそんなことを言ったなら、私がそいつをぶっ飛ばしてやるから!絶対にママを守るから!!」と泣きながら言っていた。



死んでしまった脳は、再生されることはない。




脳梗塞を起こし大きく脳細胞が死滅してしまった母だったが、運よく寝たきりなどになることはなかった。




おもらしをしてしまったり、少し知的障害は残ってしまったが、




走れないけど歩ける。




仕事ができることはないけれど、なんとか日常生活はできる。





医師の言う通り、少しづつ、年月を掛けて、母は回復していった。


そして、私達も「この母」を母として受け入れた。


なんでできないの、なんでしないの。


時にはイライラすることも多々あったが、年月を掛け、「この母」が私達の母となっていったのだ。





入院2日目、


医師からの説明に耳を疑った。


病名はウイリス動脈輸閉塞症による脳梗塞。


ウイリス動脈輪閉塞症とは、2003年に「もやもや病」と改名された。


脳血管の異常により、血管が極端に細く短い。通常は太く長いしっかりした血管に対し、煙のようにもやもやしたような血管であることからその病名がついた。


未だ原因は分かっておらず、原因不明の難病指定にされている病気のひとつだ。


母はそれまで病気一つしたことがなかったから、また、自営業のため、定期的な健康診断などもなく、


それまでまったくこの病気であったことに気付かずにいたのだ。


そして、10年前のあの日、細く、短いもやもやした脳血管が、ついに詰まり、脳梗塞を引き起こした。




病室の母は、それまで私たちだ見てきた母とは別人だった。


あれだけしゃきしゃきと喋る母の言葉はとてもゆっくりで、ろれつも回っておらず滑舌も悪い。


そして子供のように「あーあー」と泣いていた。


泣いてばかりいる母を笑わせたかった。私たちはとにかく明るく務めた。冗談をたくさん言って、母をいっぱい笑顔にしようと必死だった。


また、そうでもしないと、自分たちの心も折れてしまいそうだったから。


次第に母はゆっくりではあるが会話ができるようになった。


そしておかしな事を言い出すようになる。


見舞客の子供を見ては、自分の姪っ子だと言いだす。


「あそこにK奈がいる」


となりの病室の女性を自分の姉だと言いだす。


そしてそのおばさんと何故か仲良しになっていた。


母は退院するまでずっとそのおばさんを自分の姉だと思い込んでいた。


私たちは途中で「違う」と言う事をやめた。



約2カ月程の入院だったと思うが、

母は朝8時になると毎日泣きながら電話をよこした。「早くきてーーー」帰る時間になれば「帰らないでーーー」


とても耐えがたい辛さだった。


半月を過ぎたころ、私は妹を諭した。

「私と妹、2人いるのだから、交代で付き添いをしよう。そうでないととても疲れるし、大変だから」


当時兄は東京に在住していて来ることができなかった。とは言え、居たとしてもこうゆう場合、男はあまり当てにならない。

長時間母に付き添うなど男性には難しい。



私は母が倒れる1年程前に、いろんな事情で、とある他人の看病と在宅で介護をした経験がある。癌で片足を失った人だった。


一人で看病、介護をすることの大変さを私は知っていた。


だから、1日交代にする提案を妹にした。


妹は泣いた。「ママが死んじゃう、姉は心配じゃないの!?」


それでも私は言った。「妹が毎日行きたいなら行けばいい。でも私は1日おきにしかいかない。妹を車で送ることもしない。私が行かない日は自力で行きなさい」


妹は私に対し「姉はひどい」という目付きで睨んだが、なにも言わず、その日から自転車に乗って毎日母を見舞っていた。


私たちは夜仕事をしていた。


私は当時水商売をしていた。妹は居酒屋で夜中の3時まで働いていた。



1か月程して妹が折れた。


「やっぱり姉の言う通りだった。明日から1日おきにする」






母の後遺症は何だかおかしな病状だった。


痴呆のようなものとも違うし、かといって知的障害を持った感じとも違う。


数字が覚えられなくなった。だから電話番号をよく間違え、その都度泣いていたらしい。


あれだけ気丈で活発だった人が、子供のようにすぐに泣く。


言葉や行動がスローになった。


記憶力が低下して、頭が悪くなった。


少し半身に麻痺が残った。


人格が変わってしまった。


とても丸い性格の「幸せなひと」になってしまった。


そして一番の後遺症は、「大病をした自覚がまるでない」事だった。母は病院に来たあの日のことを全く覚えていなかった。

そして、自分が変わってしまったことも、麻痺が残っていることも、身体が思うように動きにくくなったことも、人格が変わってしまった事も、全く自覚がなかった。





発病から半年程たった頃、母がゆっくりと言った。「あの、となりの病室だった人、私の姉じゃなかったと思うんだよねえ。。。」


私は驚きと喜びで涙が出た。

「ママ、やっとわかったの!?あのとき私たち、ママが壊れたと思ってすごくショックだったんだよ!やっと気付いてくれたんだね!」


ところでなぜ顔も違う全くの他人を自分の姉だと思ったのかは、未だ母にも分からないでいる。


私と妹はあのおばさんに母と仲良くしてくれて感謝しているが、違和感を感じなかったのだろうかとこれも未だ不思議でいる。






母に病気の自覚がなかったと書いたが、それは私たち家族も同じだった。