私が中学生になった頃、レストランのすぐそばに父が家を買った。


高台の角地、真っ白い小さな建売住宅だった。


私達は、宴会場と併設していた住まいから、初めての「我が家」に引っ越しをした。


そして母は家庭内別居を始めた。



月日は流れ、気がつくと、私は絵に描いたように不良になっていた。


家出、万引き、夜遊び、ケンカ、暴走族に入り、悪い仲間とどんどん付き合いって、

14歳から18歳まで、悪事の限りを尽くし、とても母を苦しめていた。


母は私を更生させようと必死だった。変な宗教みたいのにも入ってしまった。高い印鑑とかを買ったらしい。

毎日朝日に拝み、毎日泣いていた。


私にいつも泣きながら「なんでなの」と言った。その度に私もいつも、なんで?と思っていた。色々な、言いつくせない程の「なんで」。言葉になどできるはずもない。


そんな母を見ていた妹は、私を激しく嫌っていた。




それと同時期に、父と母は毎日お金の事でケンカをするようになった。


父が母の親戚に金を貸すよう言い、母はそれに激怒する。


子にとっては、とても耐えがたい、見苦しいケンカを毎日していた。


母と父は金の事以外で話しをすることがなくなっていた。


そして父が家業から追放された。


繰り返される事業展開とその全ての失敗によるもので、親族会議の結果、父の弟が社長になることとなった。


母やAも、当時母よりの派閥に入っていたものは全て解雇となった。


父はいろんなものを作ったが、最期に作った、家業とは関係のない食品工場だけを残して、家業から追放となった。


母は家に戻ったが、しばらくの間、おそらく初めての専業主婦のようなことをしていた。


家に帰って食事ができている。


ほんの少しの間だったが、私はなんだかとてもうれしかった。でも、反抗期だったので、それを表現することができなかった。



父は夜遅くまで帰ってこなかった。


父が帰ると、逃げるように寝室へ向かう母。


父は板前だったが、コンビニで買った鍋焼きうどんを毎日食べていた。


「お父さんだって寂しいんだよ・・・」酔ってつぶやきながら、うどんをすすっていた父の背中が忘れられない。


この少し前から、うちは電話がよく止まるようになった。


ほどなくして、ガスや電気も止まるようになった。


ある日、風呂に入っていると、物音がした。そっと着替え、ドアから覗くと知らないおじさんが家の中をうろうろしていた。


「なんですか」


おじさんは私にものすごく驚き、明らかに動揺し、妙に興奮しながら、一枚の紙を付きつけて言った。


「こっ!この家は裁判所命令で差し押さえされています!!再三の連絡にも関わらず返答もないので、この裁判所からの許可令状と共に間取りを調べにきたのです!!」



私は中学を出て、すぐに働いたが、夜は歳をごまかして、水商売をしていた。


一日も早く、この腐れた家族から離れたかった。


そして17で家を出た。






支配人として雇われたAは、


父とは違い、明るい男だった。


常にダジャレをいったりして皆を笑わせた。


客受けも良かった。


でも、私は嫌いだった。そのダジャレに馴染めなかった。ダジャレだけでなく、軽口を言う、薄っぺらい優しさ、話しがかみ合わないし、私は合わないと感じていた。私は当時小4だった。


兄と妹はとても良く懐いていた。



きっとすぐだったんだろう。



母は当時、とても美人だった。


地元のダイアナと呼ばれていた。


まだ30代半ばの若い男女が、仕事で共に長い時間を過ごし、父とは正反対の明るい男、共に同じ悩み(仕事の)を一緒に解決し、同じ目標に向かって歩む。たくさんの相談をし、話し合いをし、

どうしたらよいかを一緒に考えてくれる。



母にとってはさぞ頼りになる存在だったのだろう。


武骨で酒癖が悪く、会話もしない男より、女だったら誰でもそちらに なびくかもしれない。


Aが来てから、母もダジャレを言うようになった。


そしてよく笑うようになった。



私は母のそんな変化にすぐ気がついていた。


だからあの男が嫌いだった。


兄と妹はなぜAに懐くのか理解ができなかった。




そして30半ばの若い二人は、いつの日か過ちを犯し、一線を越えたのだろう。



休憩時間に時間差で出かけていく二人の不自然な行動に、誰もが気付いていた。


従業員達はそれを冷ややかな視線で見送っていた。そして皆無言で仕事に戻る。私は黙ってその従業員達の背中を見つめていた。


ほぼ毎日のように。



父も気付かないはずはないだろう。


でも、何故か何も言わなかった。


いや、言っていたのかも知れない。


一度だけ酔って帰った時、「なんで家の子供がAと一緒に旅行に行くんだ!!!」と母に声を荒げていたのを見た。


母は黙っていた。



そして絶対に二人の関係を認めることはなかった。


Aにそう言えと言われていたのだろうと思っていた。


本人達が認めない限り、事実にはならない。小賢しいAの考えそうな台詞だ。


私は一度だけAに詰め寄ったことがある。「母とどうゆう関係なの」

「は?何を言っているんだ」と笑われ、

「愛し合ってるんでしょう!」と子供の私がとても恥ずかしいことを口にした。

私は真剣だった。


「そんな馬鹿なことあるわけないだろう」


ずるい大人にはぐらかされ、相手にもしないというような薄笑いのAにいよいよ虫唾が走った。



そして、その後数年、Aもクビになることなく、そのまま働き続けていた。


不思議だった。


自分の妻を寝とられているのに、なぜ父は何も言わず、怒りもせず、策も講じず、クビにもしないのか。


その理由は20年経って、ようやく最近、知ることとなった。別に今となれば私にとってどうでも良いことだったのだが。




9月17日(土)


母の手術から5日目になった。


14日まで母に付き添ったが、状態は術後1日目から変わらない。


変化がない。


寝てばかりでほとんど目を開けない。


意識が覚醒してないかんじで、言語もはっきりしない。身体も動かない。


毎度の事だが、私の声を聞けば、泣いてばかりいる。「あーーーー あーーーーーー」と言葉にならない。


まるで泣く事でしか感情表現できない赤ん坊のようだ。


点滴の中に眠くなる薬が入っていたそうで、今日からその薬を減らすとのこと。


Aさんには、以前から処方されていた抗鬱剤を処方してもらうよう伝える。


泣き虫になるのは、脳梗塞の後遺症のひとつ。仕方がないのだが。



術後すぐ、ICUで医師から手術の経緯について説明があった。



今回の手術で脳への血流が良くなる。以前より言語や自我がはっきりすることが期待できる。


と、言われた。




期待してしまった。



はっきり言って今の母の状態は過去2度の脳梗塞直後でも、こんなに悪いことはなかった。


今までで一番悪い状態に見える。


手術する前より、悪くなっている。



私とAさんは、はっきりと不安を抱えている。



眠くなる薬が終われば、母は元通りになるのだろうか。


医師はそれ以上の回復を期待できると言った。


そして、退院は手術から2週間。



立つことさえできない。

排泄も、食事も一人ではできない。

話す事もできない。

身体も動かない。

自我もない。


今、介護保険の認定調査が入れば、間違いなく介護度5だ。