手術7日目。



昨日は泣かずに少しだけ会話ができたが、


今日はまたダメだった。


「あー  あーー」と泣いているだけ会話にならなかった。


抗鬱剤は、もう少し様子を見て処方するとのこと。


Aさんによると、食事も離乳食のようにしてもらわなければ、飲み込むことさえできないらしい。


もちろん一人で食べることはできない。




入院はあと約一週間。


こんなんで大丈夫なのだろうか。


外科的には、ようするに傷が回復すれば退院なのだという。


医師の話では、歩けないことは、今回の手術や脳梗塞とは関係がないから、


入院を伸ばすことはないのだそうだ。


こんなに、入院前より悪いのに、


退院させられたらどうやって生活しろというのだろう。



母は6月の終わり頃に足に痛みを訴え、突然歩けなくなった。


入院までの約2カ月間、


検査もしたが、原因は不明。


湿布薬と鎮痛剤で、何とかつかまり立ちでトイレに行ける程度になった。



入院した部屋は窓際だったので、母にとっては遠く、介助がないとトイレに行けなかった。



私は病院の相談室を訪ね、退院後はリハビリの病院などに転院させてほしいと訴えた。


その意向は医師に伝えられ、術後に説明を受けたが、


母は他にも小さな脳梗塞をいくつか起こしていた。


これが足と関係があるとは言い切れず、


もし、関係があったとすると、もう脳細胞が死んでいるから、回復は望めないのだという。つまりそうであれば、リハビリしても治らないのだ。


また、痛みがあるということは、脳梗塞との因果関係とは外れ、おそらく神経痛の類だという。


だから、今回は手術のための入院だから、その後の回復状態は、その手術箇所の回復であって、


足の回復とは結び付けられないから、退院しなければならない、ということだ。


話しを聞けば、理由はわかった。


病院としては、入院時の状態まで回復すれば、退院ということだから、入院前に歩けなくなったとしても、


ようするにそこまでは面倒見れないということ。


このような言い方はもちろんしていないが、私が理解したのはそうゆうことだ。


先生はそう言ったが、どう考えても、


あと一週間で、入院当初の母の状態に戻れるとは、



思えない。。。


じゃあ、入院当初の状況までなら回復させてくれるのだろうか。



母は少なくとも、何とか立つことができたし、一人で食事もできた。普通に会話もできていた。



介護保険もまだ適用されていない。


おそらく最低でもあと1カ月はかかる。



覚悟はしていたが、どうなってしまうんだろう。

母から電話がきた!


「もしもし」と蚊の鳴くような声で言っていた!


言葉をしゃべった!!


1分くらいの会話だが、泣かなかった!


言語のリハビリの先生と話しをさせてもらったら、やはり「今日はようやく覚醒したような状態ですね」と言っていた。


今はちゃんと車椅子に座っているし、目も開いているという。



よかった。



ほんの少しの進歩が、とてもとても大きく感じる。


もっと母と喋りたい。


今すぐ行って顔が見たい。





ちなみに母は東京の病院に入院している。


私達子供達は東京から新幹線で数時間の田舎町だ。





一瞬でも、この手術をすべきでなかったのではないかと思ってしまった。


いや、正確には、まだ思っている。


母がせめて入院前の状況に戻ってくれなければ、


それまでは手を挙げて喜ぶことなどできない。


もう1度手術しなくてはならないのに。



私は自由を楽しんだ。


好きな事をして、好きな仲間達と、好きなだけ遊び歩いた。


酒をのんだり、夜中までたむろしたり、バイクや車で暴走した。


何度か警察に捕まった。


迎えにくる母は憔悴していた。もういやだといわんばかりに、次からは父がくるようになった。



父は、前記したようなどうしようもない人だか、モヤシのようなヤサ男ではなかった。


昔、格闘技をやっていて、体格もよく、私は何度も殴られているので(私が悪い事をすると)、私にとっては「大きくて怖い父」だった。

ツッパッテるフリはしていたが、内心殴られるんじゃないかとかなりビビっていた。


こんなことがあった。


ある日、自室で電話をしていた私に、父は内線で、自分が電話を使うから、一旦電話を切るように言っていた。らしい。


電話中、内線は聞こえなかった。


当然そんなことを知らない私はキャハハと能天気に友人と電話で会話をつづけていた。


突然、一升瓶が部屋の中に飛んできた。


父がキレていた。(この時酒は飲んでない)私は捕まって、「電話○$###△&n!!!」のクマの雄たけびのような声と共にゲンコツを死ぬほどされた。私は裸足で逃げた。


またある日、調子に乗っていた私は家のリビングでたばこを吸いながら茶碗を灰皿にしてしまった。ちょっと気が引けたのだが、後で洗おうと思っていた所に運悪く父が帰宅した。

父はまたクマになった。

私は逃げられなくてボコボコにされた。


またある日、夜遊びに出る私を母が玄関で引き留め、ケンカになった。

玄関の前の、ふすま奥は父の寝室だった。


突然ふすまが前に倒れ、仁王立ちした父がいた。クマの雄たけびは30メートル程離れて隠れて待っていた当時の彼氏にまで聞こえ、身震いさせたという。


私は、「え、ふすまって横に開けるもんじゃ、」とツッコミを入れる間もなくボコボコにされた。




ほどなくして、暴走族を引退した。


私はリーダーだった。


でもすっぱりと辞めた。


17から歳をごまかして務めた店が良かった。


そこのママやお姉さん、マスター達は私をとても可愛がってくれた。温かく面倒をみてくれ、時には怒り、叱ってくれた。

姉さんやマスター達は、若い当時、皆、札付きのワルというやつで、私の不良加減も笑って見ていてくれた。


姉さん達に比べたら、私のやってる不良なんてのは、ヒヨコみたいなものだった。


そして水商売こそ続けていたが、きちんと更生した。



18の終わりの頃だった。


父と母が離婚することになった。


別に驚かなかった。


私は提案した。「最後に一度、家族できちんと集まって話そう」


そして何年かぶりに家族で自宅に集まることになった。


私は妙に浮かれていた。


浅はかだったのか、心のどこかで何かを期待していたのか。





久しぶりに帰った自宅で、皆、適当に座った。


目を合わせることも、話しが始まることもなかった。


私は何だか義務感にかられ、「まあさ、」みたいな感じで、馬鹿みたいに音頭をとった。


何を話し合おうとしたのか、また、何を言ったのか、まるで覚えていない。


何故かまた、母と父の金の事での口論が始まっていたように思う。


そして、私が記憶しているのはこれだけ。




「俺はなあ、我慢に我慢を重ねてきたんだ」


「俺の地元で、


俺の従業員とくっつきやがって」


「俺がどれだけ恥をかいてきたかわかるか」


「貴様のツラなんざ、2度と見たくもねえんだよ!!」




蔑むような、冷たい目。


怒りに溢れた表情。



長年の憎しみのこもった冷たい氷のような言葉。


クマとは違う、


あんな父の顔を見た事がなかった。





そして母は出ていった。


高校に入学する妹を置いて。


私は当時つきあっている人と同棲していたので、生活に特に変化はなかった。


家業の板前修業で祖父母と一緒に暮らし住み込みのような形で働いていた兄が自宅に戻り、妹の面倒をみることになった。


一応その家には父もいた。なので父が妹を引き取った形になった。


妹はその時はすでにAを嫌っていて、Aの所に行きたくないのと、地元を離れ、市外に行くのを嫌がったからだった。




私の役割は、妹に弁当を作って学校に届けるだけだった。



ほとんど帰ってこない父。兄と妹はほぼ2人で暮らしだった。


しかし20歳そこらの男の兄が、家事、仕事、妹の面倒など見れるはずもなかった。



最初のころは一生懸命だった。


兄は友人が多く、地元ということもあって、皆幼馴染だった。一緒に妹の下着まで干してくれた友人もいたそうだ。



兄を見て、友人達は兄を気の毒に思った。


兄も兄の友人も若かったので、2人が暮らすその家はたまり場のようにもなっていた。


夜中まで酒を飲んで大騒ぎする。親がいないのだから簡単にそうなる。眠れない妹と喧嘩になる。兄の友人はこぞって兄の味方をし、妹を怒った。


ついには、兄もストレスから妹に暴力をふるったりした。


半年だった。


兄も頑張ったと思う。


でもそれ以上は無理だったのだ。


ある日の妹が泣き叫びながら掛けてきた電話を境に、私が妹を引き取ることに決めた。



ほどなくして、父の会社も倒産した。



父は家に帰るどころか、行方不明になった。多額の借金だけを残して。