この頃すでに、兄は、たくさんの借金があった。


父の借金だ。


サラ金を1日で何件も回り、お金を工面させるという、ヤクザのような事をしていた。当時は、1日のうちにそうすれば、借りた履歴が各社に回っておらず、満額を借りることができるからだ。


父はそんな知恵さえ、持っていた。


そして自分の息子を使って、それをさせて回った。


まだローンの残っている兄の車もどこかへ持っていってしまった。


若くして、たくさんの父の借金を背負っていた。父の残した借金を背負うのではない。

父に借金をさせられる。


父の周りには、そんなひとがいっぱいいた。


職人の世界だから、若い板前達は父を「親父」と慕い、また、男気のある父は、若い板前達をとてもよく面倒みていたらしい。


しかし、皆、その父の餌食になって金を工面させられ、地獄へと道連れにされた。A氏もその中の一人だったらしい。

その結果自己破産に至った。まあ、この人もギャンブルが好きだし、全てそれだけではないのだが。



親戚も皆同じだった。父にたくさんの金の無心をされ、返済などあるはずもなかった。


店も全て借金の担保となり、家業も倒産寸前だった。父の残した借金全てを伯父が背負い、店を守った。






父が消えてからは金の返済を求め、伯父の元を訪れる人が後を絶たなかった。


ウマイ儲け話を持ちかけて、騙されたというひともたくさん居た。商売への出資をした人も皆実家に返済を求めた。


伯父始め、祖父母、父方の親戚筋は全てこれを拒否した。


「店の前で首を吊って死んでやる!!」と叫んだ人も居たという。


実家をめぐる、父の借金ぶりに、狭い地元では、格好の噂の種に事欠かなかった。


ある日の仕事中、たまたま地元のお客様がいた。「私も○○の生まれなんですよ」と他愛もない世間話を始めた。


するとそのお客は話し出した。「そういえばさあ、○○(実家の店の名称)の話し聞いた?あそこひどいらしいね」

私の表情は一瞬にして凍りついた。と思う。


「へえ、そうなんですか」スルーしようとした私をよそにその人は面白そうに話し出した。

大方、知っている内容だ。


あなたよりも。


「しかもさ、あそこの家、近親相姦だったんだってね」


私は感情がむき出しになってしまった。


「は?なんですかそれ。誰からきいたんですか」

「え、いや、それは」

「だから、どこの誰がそんな事をいったんですか!!!」




「そんなにムキにならなくても、、、」


お客のその言葉に自分を取り戻した。「噂なんて下世話な話し、やめましょうよ」


おそらく、母の不倫騒動の事だろう。


自分の従業員に妻を寝とられた父の話しが、回り回って近親相姦に繋がったのか。


私はそれから、自分の名字を源氏名にした。


自分の素姓を一切人に話すのをやめた。


最後の家族会議?の日、あの父の怒りと憎しみに溢れた言葉と表情の意味がわかった気がした。


父はずっとこんな噂に耐えてきたのだろう。


そして最後に残った父の会社も倒産に至り、父は姿を消した。




私と妹は、そんな父でも心配した。


どこかで変死体が上がれば父ではないかと思ったりした。




そんなある日、父が私達の所に現れた。


暑い夏の昼下がり、


妹は学校でおらず、私一人だった。


ドアをノックする音と共に「お父さんだ」と、懐かしい声。


なんだかすごく心臓がドキドキした。



ドアを開けて、私は涙が溢れた。


真夏だというのに真っ黒な長靴を履いて、薄汚れた長袖にシャツを着て、、、



「ちょっと入れてくれるか」






私は当時付き合っていた彼と同棲を解消し、妹と住む部屋を借りた。


築何十年だろう、明らかに自分の歳よりずっと上のマンション。マンションと言えば聞こえはいいが、とっても古い建物だった。


でもここはオーナーさんの善意で、入居時に掛かる初期費用を免除してもらい借りることができた。


とはいえ退去時には30万近く修繕費用を払ったが。まあ、これは後の話で、


その時はとにかく時間がなかったことと、まとまった貯金など1円もなく、家賃5万円のこの部屋で高校に上がったばかりの妹との生活が始まった。


父の会社が倒産する前の引っ越しだったので、私は父に、20万のまとまったお金と、月々の妹の養育費?を請求し、約束をした。


しかし、1度も振り込まれることはなかった。





母は市外にA氏と食堂を営んで暮らしていた。


A氏は父の店を解雇後、もともとあった借金で、自己破産をしていた。


どこでどういう生活をしていたのか知らないが母とはずっと繋がっていた。


ちなみにこのAにも家族があった。


私達と同じ年くらいの兄妹が居て、私達がAを恨む気持ちと同様に、この家族もうちの母を恨んでいた。


当たり前だ。




どうゆう経緯かは分からないが、とある町で食堂を始め、母は妹を連れていこうとしたのだが、妹はそれを拒否した。


当初、私は母に、「母がこちらに住んで仕事に通えばいい」と言ったが、


母は「私は一緒に連れていくつもりだった」「だって父が面倒みるといった」「だって妹が」


何を言っても「だって」「だって」

ああ、そうだ、私は、この母のこうゆう所が嫌いだったんだ。母は自分の人生を取り、妹は母に捨てられたようなものだった。


私はもううんざりして、母に月々お金を送るよう言った。


しかしこちらも、頼んだ金額が送られることはなかった。


ただ母からは時折肉や野菜などの食材が送られてきた。それと一緒に、10円や100円、5円や1円、そんな小銭の袋が、2000円分くらいのお金が入っていたりした。


なぜこんな小銭なのだろう。Aに隠れて送っているのだろうか?そんなにひっ迫した経営状態なのだろうか。

でも母とA氏はストレス解消と言って、パチンコをしているのを私は知っていた。


どいつもこいつも糞親は自分のことばっかりだ。


それでも、そんな小銭でも、妹を養わなければならない19の私にはとてもありがたいお金だった。



私は、変わらず同じ店で水商売を続けた。


夜中の2時頃帰宅し、朝6時に起き、朝食と弁当を作って妹を送り出し、掃除洗濯の家事をして、また布団に入り、夕方に夕食を作り、帰宅する妹と入れ違いに仕事に行く生活だった。


妹は、想像以上に何もしなかった。家事の手伝いも一切しなかった。食べれば食べっぱなし、洗濯もしない、部屋はめちゃくちゃ汚い。


なんとなく兄がキレた気持ちがわかった。


でも、本来親がすべき事をしてもらえず、友人と比較し、それだけで私は、妹が不憫だった。

私達は、ケンカしながらも、今思えばそれなりに楽しく暮らしていた。



妹の学校は公立高校だったので、学費こそ安かったが、部活もやっていたし、けっこうお金が掛かった。


親からの支援は全くなかったので、全て私の収入で賄われた。


私の計算では、それなりに収入があって、余裕がある生活ができる予定だったが、


実際生活してみると、19の私にとっては、数字上の計算とは異なり想像以上に出費の多い生活に、親って大変なんだなあと漠然と思ったりした。

貯金などできるはずもなかった。


妹は、通学のバス代を、少し歩く電車に変えて、料金の差額の30円を貯めて、カップヌードルをこっそり買って食べたりしていた。


匂いにつられて目を覚ます私が、ひとくち頂戴!!と言うと、ああ~~見つかった!と残念がってはラーメンを分けてくれた。


今思うととっても滑稽だ。


妹もまた、私を不憫に感じていたのか、お小遣いを要求することもなかった。


私達はいつも一緒にいた。


どこにいくにも2人だった。


とても仲良しだった。お互いが、お互いを頼って生きていたのだと思う。


私の勤めていた店は、当時50歳くらいのママがいて、40歳くらいのお姉さん達がいて、お客様も当時の私からみればおじいちゃんばかり。


皆私の生活事情を知っていて、優しく、とてもよくしてくれた。


カレーを作って持ってきてくれたり、店で余ったお料理なども持たせてくれたり、食事会などは妹も呼んでくれて、親戚のようにとても温かく私達を面倒みてくれた。


だから私は孤独ではなかった。















9/19

今日の母の電話。


いつも通り「あーあー」と泣いているが、その中で、今日は何かを言っていた。


「あうあうううあ~。。。」と何を言っているかは聞きとることができなかったが。


Aさんの話しによると、


Aさんが病院にくると、やはり泣くらしいが、泣くのは最初だけで、後は落ち着き、泣きやんでいる。これは過去2回の脳梗塞発病当時と同じで、なんとなく理解できている。


昨日は少し会話もできていたという。


今日は自分で電話機を持って、私と電話していたとのこと。


食事も茶碗を持ってやれば自分でスプーンを使って口に運ぶようになったという。


昨日の夕方にも電話をくれることになっていたが、


昨日はAさんの「電話する?」の問いに、「しない」と言ったのだそうだ。


些細なことだが、一日単位で大きく変化したと感じ、うれしく思う。



明日くらいに医師から経過について説明があるだろう。


Aさんの話では、今の母の現状に医師も


首をかしげていた


という。


ということは、希望的観測を述べていた医師の目からも、やはり今の状態は想定外だったのだろう。



検査の結果でも術後は脳出血や梗塞は起こしていないというのに、過去2回の梗塞と同じような(もっと悪いが)症状のようなものが出ているのはどうゆうことなのだろう。


いわゆる血管をつなぐバイパス施術だが、そんなに難しい手術ではないと言った。


過去、何度もされてきただろう手術で、


このような術後の状態は初めてだったのだろうか。


他の人はどうだったんだろうか。


皆さん術後すぐに意識が覚醒し、言語もはっきりとし、術前と変わらぬ状況だったのだろうか。


だから医師は、希望的な見解を述べたのだろうか。


梗塞や出血もなく、手術が成功しているのなら、なぜ母はあのようになってしまったのだろうか。