こんにちは"(*´˘` )♥(´˘`๑)"こんばんは








おととい、

2025年は来ない……






と脳裏をよぎりました。

なんか急に、湧いてきて、






んー、、、

これは、どういうことなんだろ…?

とちょっとだけめぐらしました







2025年が来ないのは、この場所、地球と呼んでるここに物理的現象の何かが起きるから来ないっていうのか、それとも永遠に肉体をなくすからなのか?、と巡らしましたが、深く考えると、思考が主導権を持ちそうなのでやめました。しばらくそおっとしとこうと思い意識を別の方へ移して過ごしました。








数時間した夜になって、それは、

私には来ない、、、

みんなには来る。という感覚を持ちました。







私が2025年を私は経験しない、ただ、おしまい。と。







お、おお?ということは、私は存在しないのか???肉体的に?精神的に???

文字通りの『私はいなくて』をさらに体験するのか?それともお葬式になるのか?…どうやらそのようで。例えばこの世界が終わるとかそういう類のことではありません。







スピ界隈の人は、神とか神社とか、宇宙人やら宇宙、占星術やオラクルカード、前世やアワヤスカや、いろんな正当性の意味づけをして、物語をアレンジしてプレイヤーになっています。かつての私がそうだったように、ファンタジー事業のスピリチュアル部門では、そういう物語を好む癖がありますから。ただその解釈も私の癖かもしれませんね。








ま、真意は謎ですが、2025年が来ないこと、そのことに違和感はなく、おしまいならばなんかそう、それ、すごくよくわかる、という感じです。







なぜなら、ここ1.2年間の息子からのたくさんの親孝行は、ひょっとして、私か息子のどちらかが最期に向かってるからなのかな〜、と思うことが多かったので、2025年が来ない、という予言?にも、ああ、そうかもなあ〜って感じでした。







息子とは、高校生の時に児相によって一度離れてますからね。2人で一緒にいたら危険だからって取り持って引き離してくれました。それというのも私が他人軸で被害妄想で、人の気持ちも考えられない愚かな人間でしたから。発達障害で不登校の息子の将来を勝手に悲観し、どうやったら親子心中できるのかしか考えてなかったのですからね。数年前まで嫌われてて、『愚行をしたあんた、』と呼ばれてたのに、今はもうまったくそんな影もなく、






お母さん、産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう、愛してくれてありがとう、って言ってもらえる。数えきれない私の愚行に、過ぎ去っていった過去を共に振り返るとき、笑って語れる仲良しになり、野球観戦に連れてってくれたり、お金くれたり、お小遣いくれたり、疲れてるんだから休んでていいよという思いやりをたくさんもらって、毎日幸せに過ごさせてもらってます。







どうやって死ぬのが一番確実か、を密かに考えていたあの頃に比べたら、ほんとにこういう日が来るとは思ってなかったので、自分を大切にするという自己承認自愛行為は、世に広まって欲しいと切に願います。世界中の全員一致で、自分を大切にしたら、途端にゲーム終了です。武器もお金もいらない、分断も差別もない、楽園にしかなり得ません。






たとえ自己嫌悪してても、被害者意識をもってても、自己を肯定できなくても、罪悪感や背徳感があっで、怒りに震えてても、妬みで気が狂ってても、そこを自己承認するだけですからね。






一発勝負みたいな感じで、自分をそっこー承認するシステム化、に脳内設定すればいいだけです。それを毎日毎時間やり続ける。そりゃ継続しないとね。お箸持つのだって、PCのブラインドタッチだって、車の運転だって、電車の乗り継ぎだって、継続したから無意識でこなせるわけですからね。







自愛って聞くと引いちゃう人もいるみたいですが、単に言葉、文字違いで、自己承認。なんてことはない。でもここも、言語化をするには、人それぞれなので、万人に共通の言語化は無理なんですわ。万人に好かれることが無理なように。この点を理解しておくと、人生は省エネモードですね。






話を元に戻しまして、親孝行ラッシュで日々幸せで嬉しいのが大きいですが、幸せすぎて怖い(あら?この世の終わり?)って思ったりしました。












だけど、一方では、やっぱりこの世界の平坦さは、日増しに濃くなってっていきます。なんかこう、奥行きがないというか、、、見た物がグニャッとしてるような、、、何を見てるんだろう?という感じ。私の思考パターンの歪曲さによるものなのか、なんなのかはわかりませんが、確実にわたし、トイレに行くにも動いてる、お料理するにも動いてる、スーパー行くにも、電車乗るにも私は肉体が動いてる感覚があります。







なのに、実は実は、もうほんと、『どこにも行ってない』という感覚が強くなりました。







動いてる感じがするだけで、どこにも行ってなくて、同じ場にずーーーっと居ます。

その証拠に、(証拠なんか要らないし、証拠なんか思考が納得するためのものだしね。納得っていうのは誰が同意するんだ?ってことですよね)







時間も経ってなくて、私たちは動いてもない。

時計は物理作用で動いてるけど、私たちは同じどこにずーっといる。居続けている。

同じ場にいるから、どこにいてもいつもと同じ臭い匂いがしたりします







おいおい、何言ってんだよ^_^と聞こえてきそうですな。

ほんと、そんなの、納得できませんよね。









でも『納得』って【思考の経験則=記憶】でしかできませんからね。納得には危険がいっぱいです。納得は正しい感覚だと思い込んできましたが、納得ってのは厄介です。これは3次元の物理世界では当然のことですが、非二元では納得なんてありませんよね。







思考の範疇を超えてることが、単にぷわぷわんと湧いてきただけですから、それをさくっと言語化できるはずもないんですよね。むしろ、言語化できるならば、この世で理解できるだとか、思考で判断できるだとかで、非二元の解説がなされたら、それは二元性を持たせてしまうと思うので、非二元ではないのかなと思います。








言語化できないものは、できないでよくて、それも自分次第です。正しいものなどなくて、なんか、ああ良かった!という開放感は、自由をもたらします。つまり私たちは脳内で言葉を操り、氾濫した情報から見たいものを見るための言葉をチョイスして物質を作ってるというのは本当だなぁと言えます。









今日も読んでいただきありがとうございました!😃