こんにちは"(*´˘` )♥(´˘`๑)"こんばんは







前回書いた【修学旅行の悲しみ】は自覚していなかったのと、最近は本当に潜在意識があるかも疑わしいのとで、悲しみを泣ききれなかったことは、どうやら本当に潜在意識があるのかも?とは思うのですが、






それを前提にするならば、潜在意識の奥底にこびりついてて、しかもデフォルト化していたみたいな感じだから、あんな修学旅行を体験してたとは思い出すはずもなく、、、だからこそスピリチュアルにハマってる時は不快な深い悲しみは出てこなかったのかな?というところです。ま、この理由も後付けですけど…。







人間という役割は、ネガティブな感情をデフォルトで持っています。地球という名のつくフィールドではポジティブとネガティブがありそれは必ずセットなので、ポジティブだけを選んでポジティブ一色にして過ごすことができません。






ポジティブってエイブラハムの22段階のスケールで7以上のとこ。パワーかフォースの200以上のとこ。何が起きてもそれでいること。できるかな?って感じですよね。





スピラー達はそのポジティブだけで生きていけるって言います。でもそれもありでしょう。







だけど、ポジティブだけだったら、それがポジティブだと認識することは人間という役割の間はやがては不可能になるかもしれません。







必ずワンセットのポジティブとネガティブですが、自分の意識がポジティブを向いているのか、ネガティブを向いているのかの違いなだけです。






だけどそんなことはほんとにどっちでもいいになります。







ネガティブを向いているという自覚があるのは、ネガティブな状態を感じたいというのもあれば、その役割を果たしたいプロセス上起こってきたもの、であるだけで、






同様にポジティブを向いていると言う自覚があるのは、ポジティブな状態を感じたいというのもあれば、その役割を果たすプロセス上おこってきたものであるだけ、と言えます。






いや、そこまでくっきりそうであるとも言えない。そんな分断不要です。絵の具の赤🟥と水が混じるとうっすらピンク🩷に溶け込むような、そんな感じでいい。






ポジティブにもネガティブにもどちらにも同等の価値があり、どちらに意識を向けるかは、今日この瞬間の状態により、きっかけに乗るのか乗らないのかという選択権をどう扱っているかに過ぎないと思います。






それは人間の脳機能に制限を設けているからではないかな?と私は解釈します。






ただし、それらはあくまでも3次元に合わせた解釈でしかないと思っています。そこには、自分が人間という役割を持ってて、と思い込んでます。そしてかちっかちの肉体を持ってる、と思い込んでまして、その自覚も外せません。だからどんな語りでも、言葉を使ったらその状態から発せられる意識だと思います。







その意識は、言葉で表すことができる脳機能と記憶力があるから表せます。ポジティブもネガティブも同等の価値があると表すにしても、しかしながら大抵の人間は、真に自分の意識を表すことを拒んでおり、そして見て見ぬふりして抽象的な概念を長い間持ち続けていきます






最高潮のポジティブな喜びを隠そうとしたり、最大限のネガティブな怒りを隠そうとしたり。。。様々なシーンにおいて、毎瞬やってくる感情に向き合うことがなければ、、、、






寄せては返す波をつかむことができないように、消えてしまうから別にいいよね、気にも留めないでいい、と思うしかないからかもしれません。






【自分の感情を気にも留めないこと、それが大人になること】と暗黙の了解の一種のルールの中で生きてきたら、そうして過ごすことのほうが正解だと無意識に思ってしまう。そうやって流されてきたのが私たち。やがてとうとう今日まで、






自分の本当の気持ちはなんだろう? どうして欲しかったんだろう? どうだったらよかったんだろう? 何が本当に欲しいんだろう? やりたいことはなんだったんだろう? と意識することなく無意識に隠してきた感情は気にも留められなかったためにモヤモヤのまま置き去りにされてしまっていますから、自分自身をなおざりにしてきたツケを払う時がやってきます。それは誰にもやってきます。それは今です。







しかしそのことを教えてくれる人は少ないでしょう。そのモヤモヤは長年蓄積された感情だよと教えてくれる機関も少ないですから。だからそのままの状態で古い3次元の意識のまま、ヒーリングを受けたらその時は緩みますが、根底にある日の目を浴びないモヤモヤの言葉にできなかった感情が緩むまでには何年もかかってしまいます。








日の目を浴びたがってるモヤモヤの感情にフォーカスできるのは、自分しかいません。だからどうやっても日の目を浴びようと、自分で自分に仕掛けてきます。それがなんだかよくわからない不公平や不幸じゃないか!という現象を招いたり、悲しみや苦しみとして表出してきていると私は解釈しそれについて考えます。






人間であると思い、肉体を持っていると思い込んでる私たちは、本来常に留まることのできない流れの中にいるのに、(それを宇宙の原理原則と言ったりしますが、宇宙は見上げた空の圏外にあるというのではなく、宇宙意識にポータルで移行できると私は思っています。) 古い3次元の意識は、約束事として制限的で固定的であることを望ましく、道徳的に教育されてきた、それも洗脳であり続けて、その意識は突破口がなくて破壊されませんから、こうして語ることを文字にして書いて言葉で表していても、高次元のハイヤーセルフの意識だとか、5次元意識だとか言ってても、どうやっても古いままの3次元ではないですか?





伝わります?






言葉で表そうとすると、途端に二元性の3次元的見解が縦横無尽に広がり制限的固定的観念があることは否めません。それを、私は、自分というアイデンティティを持つものはいないという非二元ノンデュアリテイから、発出する現れを試みているというところです。







多くのスピラーは以前の私も含めて、自身が創造主であること、現実創造をすることで豊かさが循環すると謳っています。その目的は本質に目覚める=覚醒のことを説いているのでしょう。それは間違いでもなくそうであることも確かですが、






想像力を使って創造するとそれは物理現象にフォーカスするということ。自分というアイデンティティを前提にしています。それの発端は分離意識があるから。みんなも一緒に貧から富になろうね、という遊びの一種。それはそれでいい。






だけど物理現象を楽しむフェーズにいる人と、それを超えた人=非二元を知った人とでは、人生という現象へ対するフォーカス地点が異なり、解釈もないけど最適解が違って来るということになりません?








前置きが長くなりましたが、非常に悲しみが深いと、悲しみを感じたくないからその悲しみの元には【辿り着けないように遮断する】ということが、自分というアイデンティティの意思とは無関係に、勝手に行われていて、それは対象となるアイデンティティの最たる自分自身をうやむやにしてきたことへの、物理的な人生の敬意でもあり伏線でもあり、悲しみの回収は誰にも訪れることを約束している、、、と確信を持った訳です。







人間という役割に没頭している間は、そのことに気づくはずもなく。






悲しみがあること、辛さや、苦しさがあることは、最も人生で重大で重厚な嫌なこと!それはたとえ地球という二元性のフィールドであっても、あってはならないこと、なぜなら豊かの循環とは言えないよ!






とスピリチュアルに倣い、迂闊にもジャッジメントを繰り返し続け、豊かさとはこうだ!、お金があることだ、好きなことをしていることだ、時間に囚われていない自由のことだ、どこにでも思い立ったら行けることだ、やれることだ、好きな人としか過ごさないことだ!と決めつけてしまうと、それはちっとも高次元の意識ではなく制限的な3次元意識でしかなく、加えて追い討ちをかけるように、言葉を利用し







だから私はお金持ちにもなれない、友達もできない、好きな仕事で成功できない、好きなことができない、理想のパートナーと一緒になれない、母親のせいだ、父親のせいだ、先生のせいだ、あいつのせいだ、だから私はそれを持てない、これを持てない、なぜなんだ?なぜこんなに不公平なんだ?理不尽なんだ?不幸なんだ?






という不足不満の意識に陥りますが、その陥りこそが、スピラーによるファンタジー事業のトリックであることを、知識として知っておいたら、物理にフォーカスすることを、ポジティブな観点で諦められるのではないでしょうか?








人生とは、楽しいものですよ、豊かなんです、宇宙は無限なんですと2年前に私も言いました。しかしロケットやそれらしい装置を使って地球を出たところに真っ暗な宇宙があって、そこから、それの潤沢さや豊かさがもたらされるのではなく、自分の意識がそうであり、とっくにそれ=意図したこと、望んだことは、もうすでにここにあって出来上がってるってことで、その情報があってそこにアクセスしたから、つづけざまにそれを思うことを発出したのであり、








それはよく言われる『既にある状態』からもたらされたものであります。え?そんなわけないだろ?ってなります?ファンタジーやロマンス好きな人にはごめん🙏なんですけど、すでにそれはあるからそれを受け取った、というシンプルなことなだけでした。






つまり、見えないフィルターをかけて見ているだけで、、、。






悲しみも怒りも握りしめたまま、そのことに気づかないで自分自身を無視し続けて、それを見ないことは、人生を生きる上ではそうした方がスムーズに生きやすい正解であり、見えないことは勝ちであるように教わり、そういうフィルターを何十枚と持ち続けてきたわけです。






その振る舞いを選択してきたのは自分ですが、見えないフィルターを使い続け不足にフォーカスし、不平不満を垂れ流していたと分かった瞬間の、頑張らなくてもいいんだと言う安堵は、ほんとに善も悪もなく、、、ただの出来事だ、、、というのが腑に落ちます。







そうなると、エンジェルナンバーも、オラクルカードも、数多の占いも、予言も霊視も、何にも要らなくなります。その分楽しみが減るとも言いますが、、、






楽で心地よい生き方とは、これまでの古い3次元意識の象徴である制限的固定的な意識ではなく、ジャッジメントをしない、まず自分のすべてを肯定する、自分への敬意と尊重を前提とする、悲しみを解放することではないでしょうか。






俗に言う目覚めた人目覚めない人の分かれ目は、目覚めない役割をやってるだけです。だから目覚めさそう!とか目覚めて!なんて呼びかけることなんて要りませんよ。あなたを助けようとか、こっちの道の方が安全だよ、なんてお誘いするのは畏れ多いことなわけです。だって誰一人として強者しかいないのですから。それは一見ドライかもしれませんが、役割を邪魔することはない、必要な事しか起きていないのですから、それさえ思考ではない『センスの方』で明け渡すということです。そして、それは全体的に確実に完璧に起きていることなのですから。





その全体的に、を表す時宇宙という言葉が壮大で無限を瞬間的にイメージできるから、「宇宙」という単語を使おうと決めた私たちの意識があるのかもしれません。






私は今若干ブラック企業に勤めてますが(笑)、やってみたらブラックじゃないか、とジャッジメントしてますね。オファーがきて一度断りましたが、こちらの条件をのんでくれてそれでもお願いしますとやってきた案件なのです。それを受けるも起きていることですし、受けなくても起きていることで、どちらも間違いありません。やりたかった好きな仕事、でもある部分はブラックで、ある部分はブラックではない。






ブラック企業でも、好きな業務なので気にならないのかもしれませんね。残業しないって決めたらしませんしするって決めたら自分で決めてその時間内に終わります。他人の事情は考えません。決めたら叶うの真髄です。人生の全体が終わらしてくれます。ルールがあってもそのルールに私自身が囚われていないので、それはこれまでの内観の賜物だなと思います。だからそういうことなんでしょうね。どこにいても何をしてても自分しかいない世界。





ブラック企業だけどブラックにフォーカスするのか、ホワイトを見つけるのか、それも人生の敬意で尊重で、伏線じゃないですか?







その道中であったからこそ、深い悲しみの40年も前の修学旅行の思い出は突如湧き上がってきて、嗚咽と絶え間なく声のでない叫びの連続性は、身体を棘で刺すように痛みを伴い、私を突き抜けさせたのですから。これポジティブですよね?幸せですよね?






修学旅行のこと

40年前はネガティブな捉え方の出来事でした。でも40年経ってポジティブな捉え方の出来事になりました。

尊いギフトですよ。







これを、愛っていいますよね?







ていうか、何語ってんだよ?って感じも否めませんが、、、笑







人生は、面白いです。

他人の顔色伺って自分なんか消えればいいと自分を恨んで生きてきたのが、自己愛を知り他人のことより自分を優先する生き方にシフトして、自分を大好きになることなんかあるんだ?をくまなく観察してたら、二元の世界が見えて、二元性に囚われてる人間やってるところを覗いてたら、二元もない、自分がいない、何も起きないところにいます。暇でしょうがない。






横浜公園のチューリップたち








今日も読んでいただきありがとうございました😊