こんにちは"(*´˘` )♥(´˘`๑)"こんばんは






胃腸炎でした。

まるで、タイタニック号の見えなかった氷山のように、全くそこにあるとは気づかなかった、見落としたというのでしょうか、、、私の中には、見つからないはずだった、凍りついた、透明に加工でもしたような冷たい冷たい氷山があったようです。それはバキバキと音を立てて数週間かけて崩れていきました。胃痛と腹痛と出血しながら、本質に戻ることをしているようです。






辛さに泣き止んで気持ちがクリアになってから、書こうと思いましたが、泣き止むことはまだできませんでしたから、そのまま書きます。





子どもの頃、威圧的な母親に育てられた経験は、


ほとんどの人生で人の顔色を伺うことが得意になります。


時に、伝えたい思いが湧き上がり何かを言いたい情動は起きますが、結構な割合でフリーズして言えなくなります。


もしそれを言ってしまったら、自分の立場が悪くなる確率が高くなることがよぎります。もうこれ以上どんな理由をつけて自分自身を守るのか、考えることもできないかも知れない、、、そんな疲労感も襲ってきます。





嫌われたくない思いと、言いたい、伝えたいという正直な思いと、だがしかしそれらを言えない自分、かき消したくなる自分もいるのも事実です。





感情を殺し、自分を消して生きてきた時間が長いと、急速に情けなくなり堕ちていきます、自分を嫌いになります。自悪の出来上がりです。






無意識に自己嫌悪を防ぎたくて、自己防衛力が強くなります。殻に閉じこもり始まります。それは拗ね子を作り上げていきます、成長していくと確実に拗ね子は完成します。









私は、長い長い人生の時間、必要とされたかったのです。

きっとどのシーンでも。誰からも。あなたからも。








それを昔から説かれてるという安心感から「心理学」の言葉で言う[承認欲求]とか、スピで流行ってる[潜在意識やブロック]って言葉でまとめるから、括るから、いつまで経ってもそこから抜け出せないんですわ。って私は体験上思いました。






つまり、私たちは言葉に操られてるだけです。

言葉遊びをしているだけです。それ以上何にもない




なぜなら、もしも言葉がなかったら?

ストーリー完成しないですものね。












高校2年、二泊三日の修学旅行は京都でした。
当時仲良く過ごしていた(と思っていた)私とA子とB子の3人でグループ行動をしていました。






大浴場から着替えて大部屋に向かいます。階段を上がり切ったところにみんなで雑魚寝する大部屋があります。





私たち3人は、大部屋の襖を開けようとしたけど開きませんでした。始め部屋を間違えたのか?と思いました。あれ?何かが引っかかっているの?、何かの間違えじゃなくて?と何度か3人で襖を引きましたが、開きません。





数回引いて、、、やっと察しました。
3人で、目を合わせて呆れながら
ああ、つまはじきされたんだ、、、、






なぜそう思ったのかわわからないのですが、そう思うことが正解のような出来事を日常で過ごしていたからかもしれません。






仕方なく大部屋の前に3人で座り込みました。
待ってたらきっと開くから、とB子がポジティブに言います。
C子はめんどうくさ〜いと囁きます。
私は少し落ち込むと同時に何かいい案があるかもしれないとも考えていました。先生に言いに行く?でもそれはしなかったのだと思います。このまま開かなかったらどうなるんだろう?心配症の私の頭の中でネガティブな妄想が広がっていきます。。





しばらくして、
A子ちゃんは入っていいよー、A子ちゃんだけね!と意地悪なC子の野太い声が聞こえました。入りにくそうに入っていくA子。





そして数分後にB子も呼ばれ、私もすぐに呼ばれることを期待して、B子が閉める襖を向こうからは見えないように見ていました。襖の前の小上がりみたいなとこですっかり湯冷めし、ひとりぽつんと待っていました。





女子部屋は3階なので2階の先生も男子も誰も上がってきません。お風呂に入ったのは私たち3人が最後だったので、他のクラスの子ももう部屋の前を通りません。





まだ、入っていいよの許可の、C子の野太い声がしません。ひとりきりで頼る人がいないと悲しくなってきました。せっかくの修学旅行が、なんでこうなるんだろう?『どうか一刻も早く部屋に入れてもらえますように』と願うことにしました。だけど自分が期待した時間を経っても私には声がかかりませんでした。






先生の部屋は2階の奥の方で、先生の部屋に行くには男子部屋を越えなければなりません。ブスなわたしと思ってる私は、男子の前を通るなんて震えてできません。






でもなんとかしたい思いで、恐る恐る女子部屋から2階へ通ずる階段の手すりをたどりながら、ゆっくり一段と一段と2階へ降ります。(意識は)目指すは先生の部屋です。(ほんとにゲームですね。) 男子達は騒がしくて女子部屋とは別世界でした。普段は制服だけど今日はお互いジャージやパジャマなので誰かわからないこともありますます怖くなります。加えて私は髪もボサボサだから、、、ブスさが一層目立ったようで、やっぱり言われました。






お前ここで何してんの? 

  あ、入れなくなっちゃって、、、

えー!うそー、ふうん、、、やっぱお前ブスー

  あ、、そうだよね、、、ごめん(顔も赤いし恥ずかしくなります)


ここにいたってどうにもなんねーべ、ここ男子部屋だぞ、早く散れー!

  そ、そうだね、、、








なすすべなく先生の部屋に行くのは諦め、力なく足をひきずるように、萎れた雑草のように下を向いて階段を上がりかけたところで、後ろから声をかけられました。同じクラスの私の隣の席のE雄が声をかけてきました。なんて声をかけられたか覚えてませんが、E雄の方へ恐る恐る向かいました。





E雄は当時不良という括りでした。勉強は多分分かっているはずでしたができないふりをしていたのだと思っていました。荒れくれることもない優しく静かな不良という感じ。きっと親子の関係がうまくいってなかった、、だから不良っぽくしてただけ。そんな印象でした。






私の高校は受験失敗者の受け入れ校みたいな 位置付けなので、勉強できる子か、不良しかいない。偏差値は低い。なんで私がそこを選んだのかというと、私は中学でも爪弾きされて肩身が狭かったからです。(そのことは以前ブログに書いたと思います。テニス部だったけど一人で壁打ちしてました。壁打ちしてたらコントロールが上手くなっていじめてたやつがいじめなくなったという内容。他にもそれとは別のイジメが遭ったことを思い出したけど、まだそれは書いてません。それは、イジメに遭った事を書くのは、恥ずかしい事だし、ネガティブな体験は書いていけない、という謎の思い込みがあったからです。)








そう、万年肩身が狭いから、誰も私を知らないところに身を置きたかった。これは切実な願いでした。勉強なんかできないし、興味もないし、未来がどうなるとか偏差値がどうとか、不良がいようがいまいが、私にはそんなことどうでもよくて、わたしは新たな私になりたかった。いじめられるような私ではいたくなかった。だから環境を変えよう!と電車通学の不良校と呼ばれる高校を選んだんです。未来なんて考える能力もなくただその時が怒られたりしないで、否定されたり、ハブられたりしないで生きれれば良かったのです。でも、これって必死に希望を見出そうとしてるんですよね。(今だから言えます)





私がどんな事を考えて、どんなことに心を痛めたり、興味があったかなんて誰も知らない。誰も私から聞こうとしないし、私も話そうとしなかった。友人らしい友人がいたと言えばいた。でも一度でもクラスのほとんどから無視されたという経験があると


どうせ私は爪弾きものだから、、】という自己防衛がかかって相手に話そうとしなくなるし、希望を見いだすことが難しくなります。加えて特に親のご機嫌取りをしてきた時間が長い程、支配下抑圧された『私の気持ち』はもう居場所がありません。抑えて抑えてパンパンに詰まっている訳です。勇気ポイントの消耗が早いみたいな感じになるわけです。



もちろん当時そんな自覚はありませんが、親のご機嫌取りをしなければならないし、無視されたことの悲しみなんて感じたくないから、忘れるんだ、忘れるんだ、忘れるんだと、感情を感じないようにしていたわけです。そんななんの取り柄もない根暗の私は、『生きてる意味などない私』とラベリングしていくのです。その方が痛みを感じないから、楽だから。まさに潜在意識が自己防衛を安全対策として行い人生を創っているわけです。(もっともこの解釈ができるのは、散々スピリチュアルを学んだからですね。)








人生は、黙って過ごしていたって、なんにせよ突然起こしてきます。この修学旅行の思い出も、『好奇』としてやってきた、蘇った記憶な訳です。ほとんどの人が、自分の性格が悪いからとか、自分が生き方をまちがっているからと思い込んできましたが違いますよ。人生がそう仕掛けてきているんです。人生の方が私を放っておいてくれないのです





だから、悲観することも、卑下することもないのです。生きてる意味がないわけでもないし、あるわけでもない人生はたいそうなことではないのです。人生はドラマチックな伏線ネタをたくさん投げかけてくるんです。ただそれだけのことです。だけどゲームのやり始めと同じで、これからどうなるかなんて人生が進んでみないと分かりません。その人生に厳罰くらうか許容するか、だけでした。唯一無二のコントラストのために。









不良校と呼ばれる高校を選んだから、当然母親からは偏見だらけで否定的なことを言われました。そこでまた、このクソ母親!、絶対縁を切る!という思いが強くなりました。





毒親代表な、ちっちゃい器の、本当は怖がりで自信のない養女上がりのエセお嬢!気取ってんじゃねーよ!黙っとけ!と思います。今も思うんです。スピラーは親を許すと人生うまく行くって言いますが、なんの因果関係もありません。安心してください。全くの勘違いですよ。そう決めるならそれでもいい、でも意味付けするのは自分ですから許さなくてもうまくいくわけです。許さない自分をも許すのです。思うままでいいのです。






思うことに制限をかけてきたのがこれまでの生き方でしたが、思うことに制限をかけないのがこれからの生き方です。すべてを包んであげるのです。






これがわかるようになった、堂々と言えるようになった、それは自分の唯一の軸、つまり信頼と好機がきたということです。だから湧き上がり芋づる式のように思い出した、ということが起きているんです。と私は思っています。







内心を誰にも言わず隠し通し、とにかく早くこの高校生活3年が終われば東京に行ける!こんなクソ田舎脱出する!2度とこんなクソ田舎戻ってこないんだ!。クソ母親から離れる一心で、3年間を我慢する決意でした。それだけが、私の命を繋ぐものでした。





新しい自分になりたいわけですから、私は密かに高校への淡い期待がありました。うまくいく、きっとやれる!という明るくて心地よい思いがありました。ですから不良校に対する否定的なことを言われても聞く耳は持てません。しかし2年の秋。初めての京都で、冒頭の人生に影を落とす最大の出来事が、人生から挑戦状を寄越されのでした。






うまくいっていたはずなのに、、、












呼び止めてくれたE雄は、私の話を聞き、こう言いました。【わかってくれる人がひとりいたらいいだろ】この言葉をハッキリ覚えていたのは、ついこないだまで私の人生の軸になっていたからです。




たった一言で頭をガツンと殴られたような衝撃、ハッとして人生が変わるきっかけは誰にでもあると思います。まさか不良のE雄の口からそんな事を聞くとは思っていませんでした。みんなそれぞれ何か抱えて考えて生きているんだ、と知った瞬間でした。





わかってくれる人がひとりいればいいんだ、、それで生きていけるだろ?




その言葉を忘れないよう心の中でぶつぶつ言いながら階段を上ります。










もう、開くよね?と思いながら大部屋の前の小上がりみたいなとこで、ドキドキしながら、襖に手をかけてみました、心臓が飛び出すくらいのドックンドックンドックンと心音がうるさくて、子どもの頃にお母さんに叱られてる時と同じだ、と思って目をつぶってしまいます。でも、開くか開かないか、引いてみなければわかりません。






引いてみたら、
寝床が見えました。もうみんな布団をかぶって横になっていました。薄暗い中、私の布団は奥の方だと察しました。B子とC子で目を合わせたような気がします。さっきのでかいドックンドックンの心音が漏れませんように。どうか誰も起きませんように、話しかけてきませんように。と祈りながら静かに静かに、自分の布団までたどり着いたら、もう何も考えずバサっと布団を被りました。ビビリで泣き虫の私のことだからきっと泣きたい気持ちもあったと思いますが、E雄の言葉を忘れないように頭の中を『分かってくれる人が一人いればいいんだよ』、で埋め尽くしました。でも、ふとよぎります。『私はいない方がいい誰からも必要とされていないんだ』と。その思いも呪文のように頭の中を呪文のように巡らせ…いつの間にか朝になっていました。







黙って着替えて、誰の目にも止まらないよう隅っこの方にいたような気がします。シーンとした中で食べる味のない朝食。ただ、ただ、襖が永遠に開かないで済んだこと、布団に入れたこと、何も盗まれていなかったこと、ご飯が食べれたこと、A子とB子とは話せないけど、いることが分かっている。それが安堵でした。






昨夜何があったのか、誰も触れません。私が起きて食べているというのにも、昨夜のことなんて無かったことになって談笑するC子とC子を囲むいつものメンバー。その無神経さにびっくりしました。







その日が修学旅行最後の日だったのかもしれません。旅行についてきた写真家は、一人で歩く私を見つけては何枚も何枚もシャッターを押します。それを見たC子やD子はその度に、すかさず私に聞こえるように陰口や悪口を言っていました。それを目撃した写真家は、だからこそ余計に私に付きまといシャッターを合わせたのでしょう。私が一人でどこかに行かないようになのか、一人じゃないよ、って言いたげなのかわかりませんが、迷惑だなと思うんですが、私を被写体にして写真を撮っていました。写真家に撮られたら撮られた分、巨体で野太い声のC子と内股歩きのD子が遠くから絡んできたのを思い出しました。





じゃあ、A子とB子はどうしたの?って思いますよね?二人はC子達を囲むメンバーたちに誘われて一緒に行動していました。バスも新幹線も私はただ、窓からの景色を楽しむことしかしなかったように思います。






京都の街に出て身投げでもすれば良かった、なぜそうしなかった?と今なら思います。当時それをしなかったのは、E雄からもらった言葉があったからでしょう。







巨体でほっぺ真っ赤かで声もでかいブス女C子。野太い声のC子とは、ほとんど話したこともない。クラスでみんなをまとめるとか何もしないけど、声と態度が大きいから、牛耳ってる風の女。だから誰も何も言わない。そんなC子に私はどうしても馴染めない。生理的に無理だった。だからなんであの女の周りを囲むようにしてお弁当食べてるのか気がしれないとさえ思い、自ら距離をとっていたので、襖を開けてもらえなかったのはそういうこともあったからかもしれないと思います。






その野太い声の巨体C子と仲がいいのが隣のクラスの内股歩きのD子。D子はE雄が好きだったそうです。
私はクラスでE雄と隣り同士で、授業中わからないところを聞かれたら教えます。ただそれだけの仲です。休み時間に話すとかまったくなかった。私はビビりだからE雄が話しかけてくれば返すけど、自分からは話しかけません。






巨体で野太いC子と内股歩きのD子はいつも教室で2人でいました。廊下で二人にすれ違う時、内股歩きのD子から、必ず「バーカ」と怒鳴られていました。私はD子と面識がない。なのにすれ違いざまに大声で「バーカ」、すれ違った後ろからも「バーカ」って。当時は、何にもしてないのにバーカ、ブス、死ねって言われるの、意味がわからなくて、、、相手にしない術は得ていましたが、本当は悲しかったのだと思います。





彼女たちの作った、私がE雄と仲良くしてるという勝手な妄想は、とばっちりです。毎日罵声を浴びる、、、なんだよそれ?ってかんじですよね。






私は、そんな理不尽さ、悲しみや辛さを感じたくないから、もう高校生だし大人になったふりして、『相手にしない術』を選ぶことで、感情を言語化しない、そして感じないことを選択していたのだと思います。その代わり、こうは思っていました。「ここでも私は変われないんだ……。」田舎(市内)からさらにど田舎(町内)と、環境を変えたのに、それでも私は、、、ダメなんだ…。バーカって言われてイジメとは思いたくないけど、中学と同じようにいつの間に仲間外れにされる。そしてバカ、ブス、死ねって言われるんだ……。自分を愚かな存在だ、と下げていくことで、心の安定を保っていたのです。








何にも変わってないじゃん…、自分に途方に暮れました。そして、もう私はいない方がいいんだ、誰からも必要とされていないんだ、とうっすら決めたことを思い出していました。どうせ、この世界に私のことをわかってくれる人なんて、どこにもいないんだから…






生きててなんの意味があるのだろう?
①毒な母親の機嫌取り、②やりたくない宗教のご奉仕の参加、③首から下げなければならない命より大事にしなさいというお守りの管理、④テストの点数が良くても私の努力ではなく神様のご守護に変えられてしまう不甲斐なさ、⑤学校では理由もなく罵声を浴びせられる、無視される、⑥胸が大きいからとクラスの男子からからかわれる、教師からは触られる、、、何も言えない、誰にも言えない。





私は誰?私はなんなの?私の居場所はどこ?私はなぜ生きてる?私なんかいなくてもいいよね?いない方が自然じゃない?





東京へ上京する気持ちよりも死への憧れが強くなっていきました。この世から消えたい気持ちが一層強くなっていきました。









3年に上がり周りは静かになりました。巨体で野太い声のC子と内股歩きのD子の罵声も少しずつ小さくなっていきました。バーカと言われることが減っていきました。



















あの夜、大部屋の襖を開けてもらえなかった、と記憶が浮上したのは、思いがけないことでした。その出来事を失念したという気さえなく、突然やってきました。光線を浴びたように、次の瞬間には静電気が全身を走ったように、強烈に、ハッとして、立ち止まり、一点を凝視したままフリーズしていました






走馬灯のように、芋づる式?のように、浮かび上がるそのストーリーは、目の前に真っ白なスクリーンをレッドカーペットのごとくサクッと用意されて、『さあ、どうぞ観覧してください』と促されます。






見始めたそのストーリーに対して、なんて、酷なんだろう、と目を背けたくなり、胸が締め付けられ、氷山に吸い込まれ氷山の一部になったように、凍りつき、泣き崩れました。






修学旅行の襖開かない事件は、人生で一番辛い辛い出来事でした。母親に罵られることよりも、あんたは恥ずかしいと蔑まされるよりも、私は宗教なんかやりたくない!という何度かの勇気を出した訴えを却下されることよりも、勉強を頑張って高得点を取ったのにそれは神様のご守護があったからでしょう、あんたの力ではない、と私の努力を認めてくれなかったことよりも、中学でひとり壁打ちテニスをすることよりも、なによりも一番辛くて苦しいことでした。






あの日から、私は襖が開かなかったときも、開けられた時も、修学旅行の残りの一日中、そして旅行から帰ってきてからも、卒業するまでも、卒業してからも、月日が39年経ったこないだまでも、





このことを思い出すことはなく、当然泣くことも、文句を言うことも、悲しいとさえ感じることもありませんでした。





あの時、感じるはずだった感情』をなかったことにしてしまいこみ、





私は必要とされていない』と決めつけ




分かってくれる人は一人でいい』と設定し




それは呪文になって、人生の大前提、デフォルトになっていました。そうやって人生は展開されていきました。






あまりにも辛すぎて。その修学旅行の思い出は鍵をかけ重石をし二度と開けまいと誓ったまま、風化させようとした、、、のかもしれません。あの日以来京都に行きたいと思った事はありません。嫌悪もなければ憧れもなく、不感症です。



でも、息子が不登校で修学旅行の思い出もないと、のちのち辛いだろうなと考えて、親子修学旅行を計画した際京都を選びました。その時は息子の心を優先していたので、自分のことは全く思い出しませんでした。しかし人生はここぞという時を見計らって、そのストーリーは新鮮なまま上映してきました。それが今回でした。







感じ得なかった悲しさ、苦しさ、辛さ、本当は悔しくて仕方なかったのに、自分には勇気や自信がなくて、もしもそれがあったら巨体で野太いC子をボコボコに殴って一層ブサイクにしてやり、内股歩きのD子の首根っこを掴んで引きずり回して晒してやれるのに、文句を言えたかもしれないのに!!だから私は強くなりたい!!、なんでもできるようになりたい、負けたくない、馬鹿にされたくない、ブスって言われたくない、そんな気持ちが隠れていたから去勢を張ってとんがって生きていました。常に臨戦態勢で、人を見た目で判断し信用できずにいました。

これらのストーリーはすべてフィクションです。どんなに体感があって実体があって苦しさを抱えていても、それはフォーカスするごとにスクリーンが立ち上がり映し出される物語なのです。「五感を最大値で感じるために作られた」と言えばアイデンティティは納得して、次の展開が進みやすいと思います。自分というアイデンティティが頑張ってしつらえたトラップがふんだんに施された、私はいない方がいい、でも本当は必要とされたい!という叫びをやりたくて、これがベースにある物語をつくり続けてきたのです。39年もの間……。





そんなことさえ感じとれなかったことに申し訳ない気持ちでいっぱいになり、何度もごめんねと自分に謝り続けました。そしてあの日あの時、感じれなかった感情をたくさん感じました。泣き通し、声にならない何度もの叫びで喉がおかしくなります。細胞たちはビキビキと音を出します。このまま死んでしまうかもしれない…と不安もよぎるほどです。でも本望だわ、感じられなかった感情を感じられて。恨みつらみを言っていいんだよ、文句を言ったっていいんだよ、と包んであげれたこと。これ以上の幸せはありません。









あの日のことは、時間という概念を利用する私たちにとって時間軸をベースにするならば、あの日でしょう。けれども、たった今思い出しているから、時間軸をベースにしたら、今起きていることです。だから脳内ほスクリーンに上映された思い出した記憶と、併せて湧き上がってきた情動は、その出来事に素直に真摯に向き合い受け止めることが、最適な解であり、非二元でいうすべてストーリーである上映会というものを前提とするならば、最適な回(好機という意味で)なのです。





これ以上ない完璧なパズルのピースは、常に美しく、どんなに愚かで醜態に見えても、それこそもうほんとに美しい限りで、一切留まる事なく万華鏡のように動き続けているのですから、一つとして同じものはあり得ません。それはただ唯一の一点の全体が、分離してると思い込んでるアイデンティティを利用して起こしてきたことですものね。







必要とされたい、この見えないし無自覚の渇望する思いは、喉がおかしくなるほど嗚咽した時に、言語化できた思いでした。言語化できなかったから何十年もくすぶっていたのでしょう。言語化しないとモヤモヤし続ける。だからモヤモヤが何かの塊のようにごっそり喉から出る!ヤバい!みたいな状態ですから、とても人に見せられるものではありませんでした。でもそれほどの必要とされたい渇望が私のアイデンティティの中にしまってあったわけです。そんな物語をこしらえて、、、なんかもうどんな貪欲な贅沢さなんだろうと思います。ですから人から必要とされる人になりたい!という現実をつくってきたことも納得です。故に自分自身へ努力を強いるわけですが、それは真実ではないので常に違和感や、ギャップや、苦しみとして現れたのです。そして、分かってくれる人は一人いれば充分というデフォルトが容易に作られていたことにも気づきました。







渇望する、必要とされたい思いが、間違いなく相手に投影されて、私は勘違いも甚だしいほど苦しみさんに誘惑されていたのです。アイデンティティが喜ぶ別の言い方をすれば、苦しみにフォーカスし召喚し、折衝した







それらは言語化して芯から、必要とされたい】思いを噛み締めたらもうどこかへ消えてしまいました。もうそれはないのです。強がる必要ないし、主張もしなくていい、必要とされる必要もない、、、ただここにいればいいから。




解放というのはこういうことなのか、、、。という感じです。





【分かってくれる人が一人いれば充分】も噛み締めたあと、なぜか分かってくれる人は増えていました。ないものはないに気づいてしまったら、それはもうあるわけです。フィクションで幻想だって気づいてしまったらもう、そこでゲームオーバー。だけどまだ、脳内は3次元の値が有効です。何かをこれ以上求める必要もなくて、ただの存在であればいい。






私はスピリチュアルを学び通して、いい気分になろう、ポジティブになろうと努力しました。それは人生が楽しくない、うまくいってない、と決めつけて楽しくなりたい、幸せになりたいからです。そう決めつけたのは幸せとはこういうものです、このように生きることが人間です、最善ですよ、と成功法則やロールモデルをサブリミナルにより刷り込まされてきたからです。よって常に片方だけの側面しか見ないようにしてきたからでした。




無意識のうちに、デフォルトのネガティブが自動発動する事を知っているからこそ、ネガティブにならないようにコントラストに対するコントロールが働きます。悲しんではいけない、嫉妬してはいけない、恨んじゃいけない、という思いが先立ちます。





「でもそれは最適な解ではないんだよ」というフェーズにたどり着きます。





「自分を大切にする」という自己を受容することからあらゆるすべてに肯定的になる事を選択し続けていくと、ポジティブになろう、いい気分でいようという幸運体質なスローガンみたいなキャッチコピーから本質を見抜いていきます。





そして、自分への信頼を取り戻し、過去の記憶を紐解いていきます。そこに関わるのはどうしたって言葉です。潜在意識をかきかえるにしても占いにしても霊視にしても言葉ありきです。それをスピリチュアルに神聖さというフィルターをつければ、それなりのラベリングが行われます。では、【スピリチュアルは道具なんだ】というフィルターをつけると、基礎知識になり、これ以上の回り道をしなくて済む方位磁石になるわけですね。






どこまでも、何を選ぶか?どっち選ぶ?なだけです。






すっかりスピリチュアル観の洗礼を浴びてしまい、それを解くためにもう一つのシナリオが寄越されたというわけです。それが一番いいタイミングで、やってきました。





すべてにおいて伏線が張られています。





自分だと主張するYUMIKOのアイデンティティは、物語を作り続けてる、演じてる、観ている、と思っていました。がどうやら違いました。始めからドラマはコントロール不能です。うまく言えませんが、大元の全体の一つから、司令を受けているような感じ。アイデンティティはアイデンティティがあると思っている人が勝手にそう思っていていい、アイデンティティがあろうがなかろうがどちらでもいい、人生は勝手に起きることが起きてきて、人生は放っておいてはくれないほど、常にそばにあって、いつも優しくて、醜態でも円滑で、愛おしくて、そうであるだけで、私は何もすることがない。










今日は長文でした。思いの丈、集大成みたいな感じです。
ここまで根気よく読んでくださってありがとうございました😊貴重なあなたの時間を私に割いてくださったこと心から感謝しています。