潜伏キリシタンの聖地・樫山地区を訪ねました。崖の岩肌が赤く見えるのが赤岳で、山の向こうに樫山の集落があります。
江戸時代の地図ですが、黄色が幕府直轄領、水色が大村藩で、その中に緑色の佐賀藩の飛び地があり、潜伏キリシタンの聖地・樫山の一部は佐賀領内にあります。また江戸末期に樫山から数人が移り住んだ善長谷も佐賀藩の深堀領内にあります。
我が家から見た近くの岩屋山。幕府直轄領・長崎の浦上地区のキリシタンは岩屋山を霊山として崇め、「三度、岩屋山に登り樫山(赤岳)に向かって祈ると一度樫山を参詣、三度樫山を参詣すると、ローマに一度巡礼したことになる」と信じていたとの事。
岩屋山の雪景色。浦上のキリシタンにとって幕府領の長崎からキリシタン取り締まりの厳しい大村領を通り佐賀領にある聖地・樫山へ行くのは困難なことでした。
そこで岩屋山に登り、樫山のある赤岳に向かって祈ったのだそうです。JUNE COFFEEは今回帰りに立ち寄って昼食をとった所で、波の跡を残して進む船は新長崎漁港へ向かっていました。
樫山地区にある曹洞宗の天福寺。キリスト教が禁止され取り締まりが厳しかった江戸時代に、潜伏キリシタンを檀家として受け入れ守った事で知られています。
最近、新聞で報じられアメブロ仲間の「ばんだラン」さんのブログでも紹介されたエピソードに感激しました。それは1978年にあった潜伏キリシタンの子孫による「数百年後の恩返し」です。
1978年頃の天福寺はかなり荒廃していましたが、少し離れた地区の人々からの400万円の寄付により、改築することができました。「私たちは潜伏キリシタンの子孫です。この寺のお陰で信仰と命をつなぐことができました。少しでも恩返しをしたい」
「天福寺に何かあったら助けるようにと代々言い伝えられて来ました」と言われたそうです。その様な事がこの地で起こったのですから、大げさに言えば数百年を経てキリスト教徒であることを告白した信徒発見にも匹敵する話ではないかと感激しました。
お寺の門の脇には江戸時代の藩境石が移設れていましたが、東北側がキリシタン取り締まりの厳しかった大村領で、比較的取り締まりのゆるかったのが西南の佐賀藩でした。
近くには皇太神宮があり、ここにも禁教時代の名残りが残っていました。元々は7人のキリシタン殉教者を祀った弁財天でしたが、役人により天照大神をお祀りするように命じられました。
同じ敷地には殉教者茂重翁の墓がありました。浦上の3回目の弾圧の時、危機を感じた浦上の信者達からキリシタン信仰の証となるものを預かり、それを守り抜いて殉教した指導者を追悼して建てられました。
赤岳の中腹からは樫山の町と五島灘の海が見渡せます。
そして樫山海岸に行くと船の座礁を防ぐための能瀬灯標がありました。この海岸では2010年5月に大河ドラマ「龍馬伝」のロケが行われたそうです。回縁隊とゆかりの龍馬伝ですから見逃すはずはないのですが、残念ながら私の記憶にはございません。
帰りは海沿いの道を通り、2年前にオープンしたJUNE COFFEEに立ち寄り、素晴らしい景色を見ながらフランス風のパンとコヒーをいただきました。景色も味も最高でした。
最後に、いつも綺麗な夕日の写真を撮らせて頂いている善長谷教会と樫山との関係についてです。最初の江戸時代の地図でも示した様に、ここも樫山と同じく佐賀藩の飛び地てした。
1804年、樫山の潜伏キリシタンの6家族が旅芸人を装いながら移動し、この地を信仰の隠れ家として選びました。ここでも菩提寺の檀家に所属することなどの条件が課せられましたが、彼らは信仰を捨てませんでした。そして明治になりカトリックに改宗し、この教会を建てました。ここからの景色は遠藤周作を初め多くの人々から愛され、しばしば映画の舞台にもなっています。
外海地区に写真を撮りに行く時に、いつも気になっていたのが樫山地区でした。今回、天福寺の「数百年後の恩返し」の話を知り大いに感激して訪れました。そこには数百年に及ぶ苦難の歴史があり、また感動的な話もありました。そして、この樫山地区がどうしてキリシタンの聖地になり、また「三度樫山を参詣すると、ローマに一度巡礼した事になる」と言われたのかが少し理解できたような気がしました。他にも「バスチャンの椿」「バスチャンの予言」など深い話がこの地には残っていますが、話すと長くなりますのでこの辺で終わります。
















