エール大学が、マチュピチュ遺跡等から発見した考古遺物を返還する | 南米ペルー在住、ピルセンの「ペルー雑感」

エール大学が、マチュピチュ遺跡等から発見した考古遺物を返還する

1月15日付でも報告しているけれど、エール大学が考古遺物を返還することが本決まりになり、その準備が進めら得ている。アンデス文明が欧米諸国で知られるようになったのは、盗掘された土器や織物、貴金属が、外国人収集家が違法に売られて、それらが学者の眼にとまったからだという話を聞いたことがある。文字もないような文明は、程度の低いものだと観られていたのだ。そのような定説が覆されるのは、研究が進んでからのことらしい。スペイン人がボルトガル人、英国人などが現在のラテンアメリカ諸国のあるところにやってきてからの話で、その当時、もっともインテリだった宣教師たちがいろいろな記録を書き残しているのだ。



同じ話の繰り返しになるけれど、結局は政治的な判断の含めて、返還されることになった。



マチュピチュ遺跡、考古遺物返還、エール大学が返還を認める



エール大学当局と協議の後、大学側がペルーに考古遺物返還することで合意したとアラン・ガルシア大統領が発表。来年2011年第1四半期には返還か。返還される考古遺物はクスコのサンアントニオ・アバ大学に保管されることになる。

マチュピチュ遺跡発掘と考古遺物の軌跡をまとめると:



1.1875年ハワイ生まれのハーバード大学、プリンストン大学の歴史学、地理学教授ハイラム・ビンガムが1911年マチュピチュに到達。ビンガムは第1次世界大戦に従軍、後上院議員となり1956年ワシントンで死去。



2.ビンガムは1536年~1572年にインカの王族たちの隠れ都とされるビルカバンバを探し求めてクスコに到着。マチュピチュの存在のニュースを得た。



3.1911年7月24日、少年パブリト・アルバレスの案内でマチュピチュに到着、樹木の中に石壁を見つける。



4.1912年、エール大学とナショナル・ジオグラフィクの調査団を率いてビンガムは再びマチュピチュを訪問。1年間発掘調査、写真撮影、樹木の伐採などをした。



5.1913年、雑誌「ナショナル・ジオグラフィック」はマチュピチュ特集号を発刊



6.1914年~1915年、再度、発掘探検隊を派遣、マチュピチュ遺跡周辺部を調査



7.1893年4月27日付最高令:許可なくして発掘、探査調査をしてはならないと規定。ビンガムは許可申請していなかった。ペルー政府から特別許可を得るべく、ビンガムは米国政府に支援を求めた。



8.1912年10月31日付け、最高決議令が18カ月間限定のマチュピチュ遺跡の発掘、探索の許可を認めた。発見された遺物の所有の権利は(ペルー側に)保持されていた。



9.1916年1月、ペルーはエール大学で調査研究のために74箱の遺物の米国への持ち出しを認めた。


10.1916年11月、手紙でビンガムは持ち出した遺物の返還をしなければならないことを明記した。


11.1918年、ペルーはナショナル・ゲオグラフィックに対して、持ち出された遺物の返還を求めた。ビンガムが第1次世界大戦の従軍しており、返事が遅れるとの回答を得た。


12.1920年、ペルーはナショナル・ゲオグラフィックとエール大学に対して、再度返還を求めた。エール大学は研究は1922年までかかると回答した。ペルーも認めた。


13.1921年、エール大学は人骨の入った47箱のみをペルーに返還すると伝えた。しかし、まったく返還されなかった。

14.2001年~2006年、アレハンドロ・トレド政権はエール大学と返還を求める協議を再開した。


15.2005年10月、ナショナル・ゲオグラフィックは副会長の手紙で、遺物の所有権はペルーにあり、ペルーに返還しなければならないとの立場を示した。同月、ペルーは正式に考古遺物の返還を求めた。11月エール大学は遺物の所有権はなく、管理者であることを認めた。


16.2007年9月、ペルー政府交渉団代表、エルナン・ガリド・レッカ保健相(当時)とエール大学が遺物の研究継続と、一部のクスコに建設される博物館での展示を認める覚書に調印。しかし覚書をペルー側は批准しておらず有効とは認めていない。


17.2008年3月、ペルー文化庁(INC)調査団がエール大学(コネティカット)のペアボディ博物館を訪問し、遺物の目録作成を実行した。


18.2008年中旬、遺物返還にエール大学側が応じないため、ペルーはコロンビア地区の連邦裁判所の返還訴訟を起こした。


19.2009年7月、コロンビア連邦裁判所は、コネティカット州のハートフォード連邦裁判所での訴訟を要求したエール大学側の訴えを認めた。コネティカットはエール大学の所在地。


20.2009年11月、ペルーはエール大学が主張する時効を拒否、所有権がペルーにあると重ねて主張した。


21.2010年9月、ハートフォード連邦裁判所で公判が開かれた。アルビン・トンプソン裁判官。時効問題について審理された。双方が立場を主張した。