去年の年始のニュースで、大手の経営者が、景気回復のキーワードを聞かれて、「脱、昭和」と書いたカードを自信満々に掲げていた。

 

この会社は終わってると思った。平成が終わって令和になっても古い体制を変える事ができていないのなら、「脱、昭和」=「言ってるだけで変える気はありません」としか聞こえなかった。


年号がふたつ変わっても古い体制から抜け出すことのできないリーダーがいる日本が、遅れを取り戻すことは想像できない。日本脱出を助長したい訳ではないけれど、政府も誰も助けてくれない難しい状況から抜け出すには、新しい日本を作って行く若者が、囲いのない広い世界で新しい価値観を養って、自分の可能性を広げて行かないと、いつまで経っても成長しない。

 

まだ何をしたらいいか、どこへ行ったらいいか分からなくても、とにかく英語をマスターすれば可能性が一気に広がる。日本の目で学ぶ勉強はやめて、耳で学んでほしい。カタカナとローマ字で学んだら終わり。whiteの発音に「ホ」の音はない。どちらかといえば「ワイト」に近い。chaosという単語から「カオス」なんていう音は出ない。hierarchyを「ヒエラルキー」と読んだ人は誰だ?語源が英語ではないのかもしれないが、英語でなくてもRは「ル」じゃない。Air Franceを「エールフランス」と言うのはフランス語を意識してだろうが、フランス語でもRは「ル」ではない。

 

好きな英語の番組や映画を繰り返し見て、真似して声に出すだけでいい。音楽でもいいかもね。日本語を話せないのに、日本語の歌を上手に歌う人がいるんだから。子供なら、英語の幼児番組見てるだけで、ある程度会話ができる様になるのは、自分の子供達3人見てきて3回確認済み。言葉を間違えてばかりで、意味がわからなくても発音が正しくなくても、うちの場合は訂正しないで放っておく。繰り返しているうちに、少しずつ自分で訂正しながら正しくなっていく。日本人の親を持つ6歳の子供がだいぶ会話できるんだから、中高の6年間を正しく使ったら、もっと通じる英語が身につくと思うんだけどなあ。中学の英語の授業の初日に、It is a penが「エッリザペーン」と聞こえたのに、教科書を読まされた人が「いっと、いず、あ、ぺん」と、完全なる日本語読みをして、「えっ、そうやって読むの?」と言うのが、自分にとっての日本の英語教育の第一印象だった。。。そろそろやめたいね、カタカナ読みとローマ字読み。

 

自分が外国へ出るきっかけは、中学2年の夏休みのホームステイ。父がアメリカへ行く機会をくれた。その時、乗り継ぎで乗ったプロペラ機の操縦席が開いていて、「わあ、こんな仕事もあるんだなあ」と思ったのがパイロットを目指すきっかけになった。

 

ただパイロットになりたいと言う思いから、どこに向かって良いかわからずただ航空関係に進もうと、航空高専を受験した。しかし見事に不合格。公立の普通科へ行く事になった。

 

その後もどうやったらパイロットになれるのかわからないまま、高校でも曖昧な進路で先生にも心配かけた。

 

航空大学や航空自衛隊に進めるほどの実力が無かったのは自分で充分わかっていたし、色覚異常と言う大きな壁も立ちはだかっていたので、他のまだ見つからない選択肢を模索するしかなかった。

 

眼科医に「パイロットとかの特別な職に就くのでなければ問題ない」と言われた。自分にとっては「大問題です」と言われたのと一緒。でも普通に色は見えるし、色覚のテストさえ受けなければ一生色覚異常と知る事がないくらいの軽度の色弱なので、なぜか諦めることはなかった。

 

高校卒業後の進路は、日本の航空専門学校へ進もうとした。多分、飛行訓練を含む学費が半端なく高かったんだろうな。親が海外留学をみつけてきた。ただ流れに任せて行ってみたら、色覚異常の抜け道に誰かが導いてくれた。日本では色覚異常は分厚い壁でも、軽度の色覚異常なら免許取得に支障のない国は多い。何で日本は変えれないんだろう?普段の生活で何の支障もない軽度の色覚異常の人が、色を見間違う様な設計があってはいけない。

 

事業用操縦士免許の学科試験には3回落ち、四度目の挑戦で合格した後、ただ小さいセスナ機の免許を取得し、教官の免許も取得し、新聞や航空雑誌に取り上げられ、19歳にして頂点に立った感覚で浮かれていた。そのままエアラインまでのレールの上に乗れたかなと思った。でも世の中そんなに甘くない。英語もろくにできない免許取り立ての初心者操縦士を雇う会社があるわけがない。学校で教わる英語は海外では通用しない。

 

日本へ戻っても、みんな就職したり進学したり安定した生活をしている中、ひとりだけ中途半端な自分に、劣等感と焦りを感じながらもどうすることもできず、ただ思いついた事を端からやるだけ。

 

ある日、ヘリコプター訓練校に来る日本人留学生の世話をする仕事を見つけた。でも自分がパイロットとして飛べるわけでもなく、無休で雑用をするだけのボランティア。貯金もなくなり、そこを去る事を決め、また帰国。ただアルバイト漬けの日々で、どのように使って良いのかも分からない軍資金を貯める日々。

 

その後、住所の分かる全ての訓練校に、「留学生を送るので仕事を下さい」と言う手紙を送ったり、飛行訓練体験ツアーを企画してみたり、自分で客を探して遊覧飛行するなど、いろいろ試したものの、労働する権利がないので全く先が見えない。労働権がない事を指摘され、他の日本人パイロットに潰されそうになったこともある。ある航空雑誌では、「何でも相談して下さい」とあったので、相談すると「難しいから、やめておきなさい」と言われるだけ。何が正解かわからず、目隠しをされて暗闇の迷路をさまうような状況が続く。

 

その頃、移民コンサルタントの初回無料相談というのに行ってみた。すると、大学を出れば永住権を申請できると言うので、大学について調べ始めた。航空科がみつかり、すでに免許があるので3年間のコースから1年免除され、2年間で卒業できることがわかり、25歳にして大学生になった。バックパッカーズで掃除の仕事をする代わりに宿代をただにしてもらい、$250で買ったバイクを友達に直してもらって通学し、宿を出て行く旅行者が置いていく米や調味料で食い繋ぐ。その後、シェアハウスに移って、粗大ごみで家具を揃えて、なんとかバイト代だけで生き延びた。

 

卒業後、無事に永住権を取得する事ができた。やっとここでスタートに立てると思ったが、そんなに甘い世の中じゃない。大学を卒業できたと言っても、ネイティブと比べたら英語力は幼児並み。雇ってくれる所などあるわけがなかった。それでも操縦を教えたり、遊覧飛行などのアルバイトで何とか少しずつ飛行経験を積んで、飛ばせる飛行機が2人乗りから、4人乗り、6人乗り、8人乗り、15人乗りと、少しづつ大きくなって行き、31歳になって、地元の航空会社でプロペラ機の副操縦士になる事ができた。

 

もうここまでくれば、レールに乗っかって進むだけだろうと思ったが、また壁にぶち当たる。2年後に機長昇格のチャンスが来たのに、見事に惨敗。フライトアテンダントからも、英語力がひどいと上司に報告されるほどで、もう二度と這い上がれないだろうと思い、辞めてしまいたいと思った。やっと登り始めた山から足を踏み外して一気に谷底へ落っこちる気分を味わう。

 

その後、試験に落ちたので、再試験に受かるまでは免許失効で勤務できず、今後について数週間考える時間があった。すでに結婚もして子供もいたので、自分だけの都合で物事を決めるわけにも行かず、とりあえず副操縦士としての再試験を受けて飛び続ける事にした。機長昇格を逃した自分に変わって後輩が機長に昇格し、後輩の機長と一緒に勤務しなくてはいけないという、ものすごい挫折感。

 

運良く、数ヶ月後に100人乗りジェット機の副操縦士の空きが出たので、ジェット機へ移行する事ができた。その数年後、168人乗りのジェット機の副操縦士となり、今度こそレールの上に乗れたと思ったところで、妻が3人目の子を流産してしまった。精神的に影響してるとは思わず、そのまま勤務し続けた。心の健康状態は自分で判断するのは難しいもので、通常の運行には何の問題も感じなかったので、定期的に行われる監査もいつも通りに受けた。ところが、なぜか集中できず、今までやったことのないミスが続いて見事な不合格。谷底から這い上がって築いてきた自信も一気に失われた。お腹の子を亡くした母親が一番悲しくて周りのサポートがなければいけないのはもちろんの事、でも父親に対するサポートはこっちから手を伸ばさなければない。男は関係ないだろと言う人もいるだろうし。

 

という事で、またまたフライトから外され、ちょっと休んでから再訓練を受けて仕事に復帰する事ができた。毎年4回の監査(シミュレーター3回と通常の運行での監査1回)があって、それにパスしなければ飛べないと言う条件はキツイけど、落ちれば飛べないので勝手に休暇になるところは救われる。でも落ち続ければクビになるわけだから、休暇を喜んでいる暇はない。

 

その数年後、前に乗っていた100人乗りのジェット機の機長昇格のチャンスが来た。長いこと副操縦士をしていると、「この人がキャプテンになれるなら、自分にできないわけがない」と思えるような機長もいるので、自分の番が回ってくるのを待つだけ。機長昇格は何の問題もなかった。やっとのこと機長として一人前になれたかなと思っていた頃、今度は、ものすごい責任の重圧に押し潰されそうになる。全ての責任がのしかかるポジションで、部下のミスで上司が罰せられるように、他のスタッフのミスも自分に覆いかかる。もちろん自分一人で全ての仕事はできないので、仕事を分担して、部署ごとの仕事が完了したかコミュニケーションで確認を取る。でも確認をとっていてもミスがあれば責任がのしかかる。「あなたのせい」と言うことはできない。

 

家族を食べさせて行かないといけないと言う思いから、何とか頑張っていたところで、今度はコロナで会社が経営破綻。ここは、普通に給料もらってた政治家以外は、世界中のみんなが大変な思いをしたわけだから、自分の事をぐだぐだ書く必要はないでしょう。

 

運良く、投資会社に買収されることになり、会社は何とか生き残った。

 

コロナが終息すると今度は急激なパイロット不足。コロナでクビになった人もいれば早めに定年退職した人もいるし、パイロットは今日雇っても明日使えない。ライセンスと経験があったとしても、数ヶ月のトレーニングを積んでからの再スタートとなる。

 

雨が上がれば虹が出る(こともある)。A320の機長昇格のチャンスが舞い込んで来た。数年後に親会社に吸収される様な感じになるので、機長は機長のまま、副操縦士は副操縦士のままの移行になる。もしこれを落として副操縦士に降格すれば、機長に戻るチャンスは遠ざかる。まるで戦さへ行くサムライのような、これを逃したら後はない、生きるか死ぬかの覚悟で訓練と試験に臨み、日本を出てから28年目で、無事目的地へ辿り着いた。




落ちる落ちると言ってると言葉の通りになると言うけれど、それは準備が出来ていないだけで、落ちると思っているなら、「落ちるわけがない」と自然に思える様になるまでやり遂げるしかない。神社で合格祈願しても、準備が出来ていない人を合格させてくれるほど神様は甘くないし、準備が出来ていれば、物を頻繁に落っことしたり、「落ちる」を連想する様なことがあっても試験に落ちることはない。自分には出来ると信じるのも大切だけど、気持ちの持ちようの前に、自分の能力が有る事が大前提で、ひたすらやるしかない。3回試験に落ちた人が言うんだから。

 

開かない道もたくさんあるけれど、自分で試すまでは「可能」と言う言葉に「不」は付かない。試してみるまで、どうなるのかわからないんだから。どんなに難しくて無理に近いことだって、目指し続けてる間はゲームオーバーにはならない。「可能」という言葉に「不」が付くのは、諦めた時だけ。


台風のような向かい風が吹いても、時が経てば風が止んだり、追い風が吹いたりする事もある。

 

「どうせ親の金だろ」と言う人もいる。自分で何とかした時期があっても、最初は親の力。何の反論もしない。私こんなに頑張りましたという自慢話をしたいわけじゃない。夏休みの自由研究の様に、「難しい」と「不可能」という言葉は全く違うという観察結果を言いたいだけです。観察の結果、どん底に落ちても気づいたらそこから抜け出していたり、迷いながらも進み続ければ道がひらけて来る。目指すところがパイロットでなくても、一人でも多くの人に、「俺でもできそう、私でもできそう、もう一度チャレンジしてみようかな、無理だと思っていてもとりあえず一歩踏み出してみようかな」と思ってもらえたらいいなという思いです。

全て自分の稼いだお金で、39歳で1から始めて、20年かけて59歳になってジェット旅客機のパイロットになった強者(日本人)もいる。日本じゃ考えられないでしょ?考えられない事を考えられる様にならないと、「脱、昭和」は見えてこない。自分は勉強も中途半端で、高校の数学テストで0点取ったこともあった。だれかに、「パイロットになれますかね」と聞いたら「無理」と即答されるでしょう。

 

簡単ではない。パイロットになりたいと言う人から相談を受けた時は「難しい」と正直に言う。でも「不可能」でもないと言う。進み続けるだけの思いがあるかないかでしょう。

 

これからもいろんな挫折が待ってるとは思いますが、漸進あるのみ。

 

漸進:立ち止まらず、少しづつ進むこと。困難だと分かっていても漸進する。(アニメ「舟を編む」から)