彼女が着ていたワンピースの柄も。
スーツケースの色も。
全部覚えている。
『私はもう家には帰りません、』
そう言って子供のように泣き出した彼女の顔も。
そしてぎゅっと抱きしめた温かさも。
高野のお嬢さんが住むような所ではない古い狭いアパートで、彼女は生まれて初めてスーパーでパートを始めて。
贅沢なんかとてもできなかったけれど
本当に幸せだった。
彼女に家を捨てさせてしまったことは心にずっと引っかかっていたけれどそれよりも自分たちの幸せの方が大切だった。
結婚して2年を過ぎた頃に初音が生まれた。
もっともっと幸せになった。
この幸せを絶対に手放したくなかった。
彼女と息子の笑顔があれば。
永遠に幸せが続くと思っていた。
「・・直さん、」
ホールのエントランスに有希子が待っていてくれた。
小さく会釈をして
「元気そうで。安心した、」
20年以上が過ぎてお互い年を取っても
あの時の思いは忘れられない。
有希子は目を潤ませて
「あなたも。元気そうで。耳の方は大丈夫?」
声も震えていた。
「ああ。一時期は片方全然聴こえなくなって。でも今はだいぶ良くなった。でも、もう調律の仕事は・・」
「そう、」
そう言ったあと言葉が続かなかった。
「・・天音のこと。本当にありがとう。」
もう一度彼女に頭を下げた。
「いいえ。あの子の腕は本物です。ウチのスタッフも気づかないような部品の傷みまで気づいていて。やっぱりあなたの血を引いているのねって。嬉しかった、」
たくさんのことに耐えて心を病んでしまった頃の彼女の姿を思い出すだけで胸が苦しくなる。
あんなに幸せで。
家族が一緒にいるだけで幸せだと思っていたのに。
儚い夢だったのかと思えるほど
現実は厳しく。
そして
彼女を、子供たちを不幸にしてしまった。
何となく会話が続かなくなってしまった時、
「副社長、ちょっと、」
秘書が少し慌てた様子でやってきた。
「はっ・・? え? 意味わかんないんですけど!」
会場に到着早々天音はいきなりテンパった。
「調律をお願いしていた人が夕べ急性胃腸炎で病院に運ばれて。入院になってしまったんですって。さっき連絡が来て。これからの手配も間に合わないし。・・ひとりでできる?」
母からそう言われて。
いや。
それもそうなのだけれど
「なんでお父ちゃんが???」
横になぜかいる父。
「・・いや。おまえが仕事しているところ遠くからでも見られたらと思って。行くって言うとかえって気を遣う気がして・・」
バツが悪そうに父はボソっと言った。
「いや!そんなことよりも!おれが・・ひとりで。」
そこなのだった。
今までコンクールのピアノ調律を一人でやったことなどない。
以前父について補佐をしたことはあるけれど。
20数年ぶりに再開する元夫婦。感傷に浸っておりましたがそんな時天音にアクシデントが・・
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