志藤と葦切は目だけを合わせて
まずい
という表情をした。
神宮寺綾が奏の言葉に顔をこわばらせた。
「・・おとなしいかと思ったら。 けっこう強気も言うのね、」
その彼女の言葉に奏はようやくハッとした。
「そ、それは。 ぼくの気持ちであって、」
慌てて取り繕った。
彼女を怒らせて、北都フィルとの競演がなくなってしまったら・・
ようやくそのifに気づいた。
綾はじーっと厳しい視線で奏を見た。
そして
「・・アーティストはそのくらい生意気じゃないと。 大成しないわよ、」
ふっと表情を緩めた。
「え、」
「ま。 いいわ。 あなたにたくさんの人たちの前で演奏をする歓びを味あわせてあげる。 ・・彼との曲は。 ベートーヴェンのバイオリンソナタ9番。 『クロイツェル』で。」
そしてそう言い放った。
「・・クロイツェル・・」
葦切と志藤は思わず復唱した。
「できるわよね。 本番まで2か月。 そんなに時間があるわけじゃないけど。 『ウデ』で勝負したいなら。 やってみなさい。」
また厳しい表情になってそう言った。
ヴァイオリンソナタの中でも難易度はかなり上の方で
奏のスキルならできないことはないのだろうが、それを神宮寺綾との競演としてどこまで完成させられるかは話は別だ。
志藤は彼女から突き付けられた『挑戦状』に正直焦った。
言葉に詰まっていると
「やらせてください。」
奏は彼女に負けないほどの挑戦的な瞳を向けた。
葦切も志藤もそれにハッとした。
帰りのタクシーに乗り込んだとたん
「・・すみませんでした、」
奏は消え入りそうな声で二人にそう言った。
前の座席に座っていた葦切が振り返り
「どうして謝るんですか、」
と聞いた。
「なんか。 勝手なことを、言ってしまって、」
さっきまでの強気な表情とはうらはらにうつむいている彼に
「おまえ。 大物やな、ほんまに。」
志藤はふと笑ってしまった。
「え、」
「おれでも神宮寺綾にあそこまで言えんわ。 その上。」
志藤はその後のやり取りも思い出した。
「じゃあ。 彼のソロも演るってことで。 いいわね。 チャイコフスキーかラフマニノフが合ってるんじゃない？ そうねえ・・ ラフマの『エレジー』なんかどう？ 哀愁があって雰囲気にぴったり。 弾けるでしょ？」
綾は勝手に奏のソロの選曲までしてきた。
「弾けます。 ぼく自身もロシア音楽が好きです。」
奏は即答してしまった。
もう志藤も葦切も口を挟めぬまま、公演での奏のソロまで決まってしまった。
「こんなこと。 勝手に決めて。 先生にも、相談しないで・・」
宙を見て後悔の言葉を連ねる奏に
「もう遅いで。 承知してしまったんやから。 もう誘導されて・・。 まあ『世界の神宮寺』に言われたら。 断れんのはわかるけど、もうぜんっぜん一歩も引いてなかったしな、」
志藤は笑いが込み上げた。
「・・どうしよう・・」
今更になって事の重大さがヒシヒシと迫ってきた奏は両手で顔を覆った。
そして綾の挑戦を言われるがままに受けてしまった奏。激しく後悔しています・・
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