天明三年浅間山噴火史・爆発音は京都奈良まで達した。 | ポポ山に祈りを込めて

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時々ブログ書いてます。

(以下は過去の記録であり現在の浅間山が今すぐに動くことはないとは思いますが、、

不安になりやすい方はご遠慮くださいね)


画像は群馬県吾妻郡嬬恋村、鬼押出し園で撮影。

>一帯は1783年(天明3年)におきた浅間山の噴火の際に流れ出た溶岩で、膨大な量の溶岩が風化した結果形成された奇勝を巡回できる

天明三年(1783)に浅間山が有史以来の噴火活動に入り、4月から7月初旬(旧暦)まで断続的に活動を続け、ついに7月6日、7日、8日の大爆発によって火口から流出した火砕流、火山屑流、溶岩流は北麓六里ヶ原に押出し、瞬時にして鎌原村を埋没し、さらに吾妻川流域の村々を襲い、渋川地先きにて利根川と合流、さらに流れ下って太平洋まで濁した。

噴煙は空中高く噴き上げ、火山弾、火山礫、火山砂、火山灰を地上に降らし、偏西風に乗って東方に移動しながらこれまた多大の被害を与えた。特に流出した火砕流は巨岩を包みながら莫大な量となって流下し、多くの犠牲者を出した。 


わが国有史以来の火山災害の中でも特にその規模の大きさで余り例を見ない噴火であった。

 

浅間山は「日本の屋根」といわれる長野県と山岳地帯の高原に聳える火山で、一時休止して噴煙を見ないこともあったが、有史以来でも大小の爆発を繰り返してきた山である。

活動を開始すると、噴煙を空中高く噴き上げ、それが地球の自転に伴う偏西風に乗って、長野県の軽井沢の上空から群馬県地方に砂、灰を降らし、遠く埼玉、東京などまで火山灰を降らす。

大爆発となる火口から流出する噴出物により多くの農耕地、集落を埋没し、人命を奪う大災害をもたらしてきた。


したがって、麓の住民のみならず、浅間山といえば東京都民、関東一帯からも怖れられてきた歴史を持っている。桜島や伊豆大島、北海道の火山と違い、海に遠い内陸部に位置しているから大爆発になるとその被害は甚大であったのもこの山の特色である。

群馬県側の人びとは、噴火することを「焼ける」とよんできた。爆発することを「浅間山がはねる」ともいう。この二様の用語からも、浅間山の火山としての特色をうかがうことができる。


山肌の大部分は樹木がなく、わずかに酸性植物が中腹まで見られるだけ、荒々しいしかも若い山であるのも、活動の烈しさを物語っている。

浅間山の標高は大正元年の測定で2542メートル。昭和10年の測定で2557.98メートルとされた。一般地図では現在でも2542メートルと記しているが、最近専門の立場からは昭和10年よりさらに高くなって2560メートルとしている。大正元年から18メートル高くなったことになる。浅間山は成長しているのである。


(鎌原観音堂については前に書いた浅間山の記事にあります)

鎌原火砕流は鎌原村を埋没したあとに、吾妻線万座鹿沢口駅の東にせまっている崖から吾妻川に流れ込み、一方西側の火砕流が大笹・大前区域から吾妻川に流れ下り、吾妻川の水と一つになって流れ下ったが、伝承によると西窪集落を流し、三原の中居屋旅館のすぐ下まで泥流が達したという。一方小熊沢川と赤川に流入した火砕流は小宿村と常林寺を流じ、(赤川小宿川)芦生田集落を埋没(小熊沢川)した。

こうして吾妻川両岸の耕地、道路、山林、集落をつぎつぎ襲い、長野原区域に入り、中央小学校一帯にあった坪井村を埋め、長野原町を岩と砂の下に埋めて吾妻渓谷に押し込み、伝承では渓谷の最狭あい部である猿岩のあたりに岩石、樹木、家屋などが詰まり、逆流したという。

吾妻渓谷を突き破った水と一つになった火砕流は旧岩島村区域を過ぎ、原町では善導寺前の国道のあたりまで達したという。中之条町区域を過ぎると両岸が開けた小野上村区域で一ぺん拡がり、子持村北牧、渋川市川島、南牧を襲い、予想以上の死者や被害を与え、渋川地先で利根川と合流してさらに豊富な水量を加えて流下した。

渋川市の中村・半田を押し、吉岡村と現在の前橋市区域を流れ、広瀬、桃木両用水に流れ込み、天狗岩用水も水口を塞がれた。こうして玉村町五料で関所を流失し、鳥川と一つとなって利根川の両岸を襲いながらさらに東流した。前橋区域から下流に殊に多くの犠牲者の遺体が両岸に打ち上げられた。


幸手を過ぎ、関宿から一部は旧利根川の本流であった江戸川へ流れ込んで現在の東京湾に達し、本流は東流して太平洋に流れ込み、太平洋のかなりの沖まで黒色に変えて消滅したのである。

爆発音の可聴区域については、山梨・愛知・三重・京都・大阪・石川・能登半島・佐渡ヶ島、さらに広島・岡山などの中国地方から福島・茨城などに達したとされる。


噴煙の上昇高度は噴火の規模から見てもおそらく2万メートル位までは達したかもしれない(この部分は説明がもう少し長くてここでは省略しています)このような上空は一般に成層圏とよばれ、地球から平均1万メートルの高さをいっている。ここまで達する噴煙は火山灰により更に微粒で一般に火山塵と言われている。

成層圏は温度が一定し、風もないため、ここに達した火山塵は成層圏に拡散して下になかなか落下しない。その火山塵の層が太陽熱を遮り、地表はコウモリ傘の下になって地球が冷え、太陽光線の輻射熱が減じて寒冷となる。いわゆるアンブレラ現象を起こす。

以上天明三年の浅間山噴火の活動を空と陸の二つの面から記したのであるが、その被害区域の面の広さと立体の空の高さ、北半球を覆った大規模な影響を与えた点で正に有史以来日本火山活動史上その例を見ない大噴火であったことがわかるのである。

「天明三年浅間山噴火史」萩原進 鎌原観音堂奉仕会発行より部分的に拾って書き写しました。

この資料は、鎌原観音堂近くにある資料館で販売しています。

浅間山噴火の資料がたくさん置かれているので興味のある方はぜひ足を運んでみてくださいね。

嬬恋郷土資料館


「鬼押出し園」 

こちらは散歩コースにはぴったりです音譜

特に私のような火山オタクには(笑)

園内には東京上野の寛永寺の別院である浅間山観音堂があります。

>浅間山噴火の犠牲者を弔う目的で1958年に勧請された。

>鬼押出しの溶岩は、普通の溶岩と考えられてきたが、火砕物が火口周囲に堆積し、熔解して凝固しながら流出した特殊な溶岩であった。天明浅間山噴火も普通の噴火のように、軽石の噴出、火砕流、最後に静かに溶岩が流出したと考えられてきた。しかし鬼押出しの溶岩には、普通の溶岩に少ない、鉱物の結晶が破砕されたもの、山を構成する岩石の断片、酸化した火砕物を多く含むことは、金沢大学や日本大学のグループが独立に指摘してきた。これらの特徴は、爆発的に噴き上げられた火砕物が積もり、急傾斜のために流れたとすると説明がつくという。


鬼押出し園から見た浅間山はいつも私が行くときは雲に覆われていて、

それでもこの日はよく見えたほうでした。

イタリアのポンペイを訪れた時と同じでした。

浅間山はずっと向こうにあるので、

現地に行くと天明三年の噴火の凄まじさがよくわかります。


半分寝ながら書いたので汗内容は後日更新するかもです。