イエズスの十字架の聖遺物 | ポポ山に祈りを込めて

ポポ山に祈りを込めて

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しばしの休憩を。

民衆は狂ったように叫ぶ。
「その血をわれらの上に!われらとわれらの子らの上に落ちるよう。われわれは恐れない。十字架にかけろ!十字架に!」
ポンティオ・ピラトは座に戻り、百夫長のロンジーノと1人の奴隷を呼びつける。
奴隷に板を一枚持ってこさせ、それに札を置いて、
「ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス」と書かせて、これを民衆に見せる。
ピラトは腕を前に突き出して命令する。
「十字架にかけろ。兵隊は行って、十字架を準備しろ」

「キリストに対する愛に燃えていたヘレナは、すでに70歳近くになっていたが、
聖地エルサレムを巡礼し、我が子コンスタンチン大帝をはじめ、ローマ帝国の国民がキリスト教徒になることを熱心に祈り、ベトレヘムやエルサレムに聖堂を建てた。

ヘレナは主の聖十字架をひと目見たいとの熱い望みから、エルサレムのマカリ司教の協力を得て、ゴルゴダ付近一帯を発掘させた末、ついに三つの十字架とピラトが付けさせたという罪状書き、「ナザレのイエズス、ユダヤ人の王」としるした札を発見した。

しかし三つのうち、どれがイエズスの十字架なのか分からなかった。
もし、この中の一つが聖十字架ならば、触れただけで奇跡が起こるに違いないとヘレナは確信した。

その後、十字架の一つに触れると病気が治ったり、死者が蘇るという奇跡が起きたため、この十字架こそが聖十字架であることが確証された。

ヘレナは、多くの遺物を携えてコンスタンチノーブルに戻り、330年に帰天した。
現在、聖十字架の二つの断片のうち、大きい方は聖ペトロ大聖堂の宝物館に、小さい方と罪状書きの札は、ヘレナの邸宅跡であるヴァチカン領のジェルザレンメ聖十字架教会に、それぞれ保存されている。」



今月の初めに高円寺カトリック教会に行きました。
ミニ・バチカン展が開催されました。

日本では「いつくしみの特別聖年」のイベントが各地の教会で順番に開かれています。
なにもわざわざローマに行かなくても笑ぜんぜん大丈夫です。

今回の展示会で一番注目したものはイエスの聖遺物です。
(他の教会では聖ファウスティナの聖遺物を展示しています)

教皇庁証明書添付の聖遺物

実際にイエスが架けられた十字架の木片です。
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木片は十字架の左右と上に、5ミリ程の小さな断片です。
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私も疑り深いので、本当なのかなって思いながら聖遺物の前へ。

たしかにこの前に立つとここだけエネルギーが違う。
こんなに小さな木片なのに。
だからといってこれが本当にあの時の十字架なのか、、

もしそうだとしてもイエスのものなのかは私には分からない。
それが逆に私の心は複雑になる。

違っていたとしても、イエスが十字架に磔になったことは事実なのだ。
そこに至るまでのイエスの苦悩、痛み、屈辱、哀しみ。。 

教皇庁の証明書
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イエスが十字架に架けられ息を引き取るまでの彼の姿は目を背けるほどに凄まじく惨い光景だった。
約2000年前のこと、その姿を今の時代、誰が想像するでしょう。

イエスが息を引き取ると同時に天空にはラッパが鳴り響き、稲妻と嵐が押し寄せ大きな地震で地は揺らぎ人々は恐怖のうちに絶叫し地面を這い蹲る。その間、ヨハネは泣き崩れる母マリアを片手で抱きかかえ懸命に支えている。

私はゴルゴダの磔のことは忘れない。

それは方法は違っても、今のこの時代でも私達がやっていることは変わらないから。

人々は平気で他人に暴言を吐き相手の心に槍を突き刺す。

そうすることで自分の魂をも傷つけ地獄へと落としていることに気づかないのです。


後にイエスは語る。
「子らよ、いつも、いま言ったとおりである。いまでも。
神とその光とのための場所がないところ、その入口と窓とがサタンに仕える番兵である傲慢、悪徳に守られ、閉鎖されている所にどうして入れようか。
ピラトには、私の国がどんなものか、理解できない 最大の苦しみは、私からその説明を聞こうともしないし真理を知るようにという私の招きに対して不遜な未信者は真理とは何かと言いつつ、肩を揺すってその問題を見失う」


時は着実に新しい時代へ向っていて、地球はその準備を始めている。

永遠の真の王国。 三位一体の愛と光と智慧。

イエスは語る
「罪の中にかたくなにとどまるとはどんなことか深く黙想しなさい。十字架像はおまえたちを愛していると言おうとして両手を広げて、はりつけられたままを表す。おまえたちの人間の自由意志の力を黙想せよ。それはすべておまえたちの手に握られている」


私はいつまでも「その時」を待つ。
たとえそのとき私は地獄に堕とされ、暗闇のほんの僅かな隙間から、その輝かしい栄光を見ていようとも、
私は天の父の御心に従う。
そして同じ地獄の底で彷徨う霊魂たちに止むことなく祈りを捧げ、
その哀れな霊魂たちのすべてが、天の光の元へと引き上げられることに専念するでしょう。


(私の信仰はすべての宗教に属してなく個人的なものです)