2mくらいがせいぜいだ。
通信や交通がみるみる発達し地球の裏側にいる人と話もできるし世界一周も夢ではない。
でも、自分の生活圏内といえば自宅から職場までの数十キロかそれよりも少ない。
じゃあその中で自分が思い通りにできるのはどれくらいか?
2mくらいがせいぜいだ。
よほどのことがなければこの2mという空間の外のことに興味関心を抱かない。
いわゆる無関心というヤツだ。
ほとんどの人間が自分の人生に追われて手一杯なのだから。
しかしながら実際はその2mの中だって思うようにできていない。出来ると思っているだけだ。
こぼれないように両手で水をすくっても指の間から水は逃げていく。
丁寧に、慎重に書いているハズなのに鉛筆の芯が折れる。
レシピどおりに作ったハズなのに思った味と違う。
そう。
人生とはままならないのだ。
2003年のアメリカ映画「21グラム」
この映画はまさにそんな人間の葛藤や不安、希望、そして運命をうまく表現した作品だ。
出会うことはなかった3人の道が1つの事故をきっかけに交錯して行くというストーリー。
登場人物の中の誰もが平凡な生活を送ることを望んでいる。大きな夢を叶えようとしているのではなく、誰もが思う日々の小さな幸せを追いかけているだけなのに、そんなことすらままならない。
時間軸をズラしながら進行していくストーリーなので集中していないとわからなくなってしまう。
恋人とノリで借りてきて観るのには決してオススメできないが、その恋人と将来を考えているのならばじっくり観ても良いとは思う。
さて。
結局のところ21グラムとは何の重さだったのか。果たして魂の重さなのか?
観た人それぞれ解釈は違うだろうが、僕は思う。
思念なのではないかと。
魂の存在を信じる僕だけど、そもそも魂ってなんだよ!?ってことになる。
キリスト教な考えの下では健全な魂は健全な身体に宿るものとされている。
それゆえに体を動かす最重要機関である心臓が魂の宿る場所と信じる人も多いのだろう。
「心臓移植」という要因もその暗喩なのでは。
ところがどっこい。
理屈っぽい僕としては魂の宿る場所は脳だと思っている。
人間は考える葦である以上、思考を停止することができない。
劇中ラストシーンでまさに死ぬ際のショーン・ペンが語りかける。
21グラム分なにを失うのか?
悲しい哉、死ぬまで思考を止められないのだ。人間を突き動かすモノの中で陽が衝動であり感情ならば、陰は思考だ。
生に対しての衝動がなくなくれば体は死ぬ。
思考がなくなった時点で魂が抜けるのだ。
そんなことを考えさせられてしまう良作の映画「21グラム」
ショーン・ペン、ベニチオ・デルトロという曲者俳優2人の競演もすばらしい!