世界に洪水伝説といわれるものは多いが、最もよく知られるのは「旧約聖書」だろうか。洪水伝説は現在に残る最古の写本は、紀元前2千年紀の初頭にシュメール語で書き写されたギルガメシュ諸伝承といわれる。その元になった「ギルガメシュ叙事詩」は前12世紀のアッシュルバニパル王の図書館に残る粘土版で知られる。シュメール語版の編纂は紀元前3千年紀に遡る可能性が高いといわれる。

 

 四大文明は大河川の灌漑によって発達したので、文明は灌漑技術の発達と無縁ではない。とはいえ、現在のメソポタミア地方の気候からは想像もできないが、四大文明の頃はメソポタミアの気候はもう少し湿潤であり、農耕に適していたといわれる。少なくとも洪水伝説が残るほど大河川の水量は今より大きかっただろうと想像できる。エジプトが「ナイルの賜物」といわれる所以である。

 

 黄河にも多くの洪水伝説がある。人面蛇身の共工(下掲左)は中国神話に何度も登場し、洪水を起こす悪神であると同時に水徳による覇者(下掲右)としての描かれている。洪水を治めたものが為政者になるというストーリーは五帝および夏王朝の禹王にみられるモチーフである。

 

 

 

 五帝に先行する神話的な存在である燧人・伏羲・女堝・祝融・神農のうちの3人とされる説があるが、共工は祝融と覇を争ったとされる。三皇や共工は神話においては人格化されているが、自然現象に対する人間の営為とみることができる。燧人と祝融は火神、神農は農耕・食物神であるが、伏羲と女堝も治水の神である。

 

 

 五帝の尭の時代の四罪のうち、共工は洪水の原因、鯀は治水の失敗者とされ、驩兜(丹朱、下掲左)と三苗(下掲右)は尭に対する反乱者とされる。共工・鯀・驩兜・三苗はそれぞれ北狄(モンゴル系)・東夷・南蛮(東南アジア系)・西戎(チベット系・トルコ系)になったとされる。いずれも人間の面相や体躯に動物的な要素を持ち合わせる野蛮さを表現している。この春秋時代における中原の東周王朝に対する四夷は当時の地勢から五覇である斉(東)、晋(北)、秦(西)・楚(南)の反映ではないだろうか。

 

 

 東夷は夏王朝に服するかたちで文明に同化した。渭水盆地から興った周や秦は西戎を服属させるかたちで強盛になったとされるが、西戎と一体化したと言う見方もある。北狄はオルドスからゴビ砂漠あたりにいた騎馬民族をさすと思われる。南蛮は春秋時代に楚が中原に侵入した経験を物語っているのだろうか。下掲は楚の荘王の姿を示すモニュメントである。

 

 

 11月下旬のある日、推薦入試の小論文の採点をした。本当は3人なのだが、1人が欠席して新任の A と私で小さ目の机に向かいあって採点をしていた。どういう基準で採点するかは予め決めていたが、どう評価するか難しいときはその都度相談した。「これ、どうかな」と向かいの彼女に答案を渡そうとすると、「どれ」と横に座った。右手で答案をもって見せようとしたら、A の胸が当たった。一瞬ハッとして目をそらした。しばらく間があって「仕事終わったらいっしょにご飯でもどう?」と言われた。

 

 彼女は大学からバスで15分くらいのアパートに住んでいた。どこかの店に行くかと思ったら、スーパーに買物に連れて行かれた。彼女の家で料理を作るという意味だとわかった。具材から水炊きだと言うことはわかった。やはり福岡の出身だから水炊きを食べさせたかったのだろう。鍋を挟んで向かい合っているのだが、なかなか話題がみつからなくて沈黙が続いた。

 

 自分のことも告白することにした。「結婚はしてないんやけど、実は十何年くらい前から同棲してるんよ。A ちゃんと同じ福岡出身で、2つ歳下」と告げて、「もう1つ元のアパートも借りたままで、週末だけ帰って一緒に暮らしてる感じかな」と言い添えた。「それまではどうしてたん」と訊くので、「う~ん、いろいろあって」と言葉を濁した。私が思い浮かべたのは助手時代の F のことだった。就職してからだから結婚していてもおかしくなかったが、彼女も結婚を望まなかった。S子もそうだったが、なぜか結婚していなかった。

 

 「それにしても A ちゃんは昔と変わらんね」と言うと、「あら、そう」と嬉しそうにほほ笑んだ。「おれはこのざまやけどね」と自分の変貌ぶりと比べた。160cm以上ある長身だが、今よりふっくらしたイメージがあった。正直言うと、そういう関係になりながら30年前のことは覚えていなかった。ただ欲望を吐き出しただけだった。眼鏡をかけたくらいで、30年も経つのにたしかに体型は変わっていない感じがした。

 

 「ねえ、採点室の続きいいかなあ」と訊くと、こくりと頷いた。採点室のときのように横に座ると、「待って」と言って鍋をシンクに移動させた。立ち姿を見て台所に追いかけてニットセーターの上から肩を触った。振り向いて唇を重ねた。薄らと皮下脂肪がついていたが、筋肉質な背中だった。セーター越しに乳房の柔らかさがわかった。「待って、汗かいたから」と身体を離すと、そのままバスルームに向かった。

 

 食卓で待っている間に19歳のときの感触を思い出そうとしたが、もう覚えていない。バスルームでシャワーを浴びているところを覗いて「いい身体しとる」と褒めると、「いやん、なに?」と言いながらどこか嬉しそうだった。もう50歳に近いとは思えない見事な肢体だった。

 

 バスローブを着て出てきたあと、ベッドルームに行った。ローブを肌蹴て脚を触ると、やはり筋肉質だった。「なんかスポーツしとるん?」と訊くと、「学生時代はバドミントン、今は朝ジョギングくらい。こっちに来てできてないけど。ハーフの市民マラソンにも出たことがあるのよ」と答えた。筋肉質な肢体の秘密がわかった。私のように大学生になってぴたりと運動しなくなった者とは体型維持が違う。

 

 女体を触っているだけでその気になることもあるが、病気をしてからS子との間でもなくなってきた。脚だけでなく全身を愛撫していると、息が荒くなってきた。パンティを脱がして愈々内腿を舌を這わせてみたが、どうもできそうもない。「最近血圧が高くてダメかもしれない」と予め言い訳した、陰毛を掻き分けて敏感な部分をしばらく舐めていると、甘い淫声をあげた。やがて舌の動きに合わせて腰を動かしはじめて、悲鳴にも似た声をあげてガクッと果てた。

 

 その声を聞いても私の股間は反応しなかったが、やはり血圧が上がると反応しにくいのだろうか。「ごめん、今日はできないみたい」と言うと、「ううん、あたし久しぶりに…」と返してくれた。「今日は A ちゃんがイクところを見られただけでも満足したよ。昔の罪滅ぼしかな」と取り繕った。一緒にシャワーを浴びないかと誘われたが、結局全裸にはならずに身支度をした。「今日は帰るよ」と言った。ベッドから起きて A の全裸の立ち姿は美しく、妙に艶めかしかった。

 

 教育大学の専門学校化の一端だったが、公立学校の学校現場に詳しい実践経験のある教員が採用されていった。研究者というより現場上がりであった。ある人はこの傾向を「師範学校の再来」と評したが、師範学校の時代とは状況が違っていた。大学院に進学したあと学校教員に一旦なって、その後母校の教育大学に戻ってくるという一群のキャリアの人たちはいたが、公募で「実務家教員」として採用される者もでてきた。

 

 A という新任の教員が准教授として赴任してきた。彼女は九州の地方大学を卒業して一旦教員として就職した。20年ほど教員をしながら大学院に進学した。結婚して子供も儲けていたが、学校教員として働きながら現場の教育実践報告を書いて研究者としてのキャリアを続けていた。公募のチャンスを得て採用されたわけである。年齢は私と同じ49歳だった。

 

 しばらくして彼女に「久しぶりね」と声をかけられた。私は「どこかでお会いしましたか?」と訊いた。「予備校のときのこと覚えてない?」と言われた。そのときは全く思い当たらなかったが、自宅に戻る電車の中で「あっ」と叫んだ。姓も変わっていたし、もう30年前の19歳のときのことだったが、顔に見覚えがあった。大学浪人の1年目の3月に関係をもった人だった。

 

 眼鏡をかけていたこともあったが、私は当時から30kg以上も体重が増えて姿かたちは見る影もなかったはずだ。処女を奪われた男の名前を覚えていたのだろう。翌日、彼女の研究室を訪ねた。しばらく沈黙があって「それにしても名前だけではわからんかった。別人やもん。福岡県出身というんでわかった。面影はある」と語っていた。子供はもう大学生で、夫とは別居の単身赴任だった。経歴を聞いてなるほどそういう人生もあるかと思った。

 

 予備校の時に交際していたM子のことも訊いてみた。「M子ちゃんと付き合ってたんやろ。動物園に一緒に行ったこと嬉しそうに話してた。別のクラスに移ってからそのあと他の人と付き合うようになって、予備校やめたんよ。妊娠したという噂を聞いたけどようわからない」と答えた。M子と A は高校の同級生だった。私がM子と話している時、何となく会話に入ってきていた。

 

 二人とも2時間目がなかったので5階から3階の私の研究室に早めに昼食を誘いに来た。11時過ぎだとほとんど学生もいない。私は「A ちゃん」と呼び、予備校のときにM子から話をよく聞いていたのか同じように下の名前で呼んだ。「あのときなんであたしのこと誘ったん」と訊かれた。再び大学入試に失敗してむしゃくしゃしていた。予備校の入学手続きに来た時に大学の合格を報告に来ていた A に声をかけた。友達が借りていたアパートが留守だとわかっていて誘ったら、なぜかついてきた。彼女も大学に合格して気持ちが浮かれていたかもしれないが、私に気がありそうだと感じていた。

 

 そんなことはとても言えないので、咄嗟に嘘をついた。「オレねえ、元々目の涼しそうな娘が好みなんよ。M子ちゃんより実は君のほうが気になっててね。それで話しかけたんやけど。M子ちゃんのほうが積極的やったんで。あのとき会えるのも最後やと思って…。あのときはゴメン」と煽てながらあらためて謝罪した。彼女は「ふう~ん。そうやったん」と嬉しそうにほほ笑んだ。

 

 12時前には食べ終わって研究室に戻ろうとした。エレベーターの中で5階に寄ってコーヒーでも飲んで行かないかと誘われた。私は助手のときに修士号しかもっていなかったのでmasterと呼ばれていたことを話した。彼女は助手が長くて、自分もコーヒーを入れるのはマスター級だと返した。お湯が熱すぎてコーヒーをズボンの膝に溢した。あわてて彼女は布巾で拭いたときに、顔が近づいて目が合った。どちらともなく唇を近づけてキスをした。なぜ結婚しないのかと問われたときに、S子と同棲していることは言わなかった。大学の同僚なども知らなかった。

 

 

 

 手術して半年余りが過ぎた。ある日遅い夕食のあとに彼女が語りはじめた。「ずっと避妊しなかったのは、子供を作ってくれようとしたんやと思うの。そのことについては感謝しとる。あたし、たぶんあと何年かのうちに閉経して、もう妊娠することはないかもしれない。入籍のことを一度も言わなかったけど、たぶん結婚するとしたら妊娠してからだったと思うの」と。

 

 S子は意外なことを言いだした。「あたし、46歳になった。12年ほど前に出会ったときに、私をS子さんという人と間違えたでしょ。だから私はその代役だったんじゃないかと思うの。本当はS子さんとの間に子供がほしかったんじゃないかって。」私はそれに抗弁した。目鼻立ちがはっきりしない地味顔は似ていたが、私自身の状況が違っていたので、そのあたりは何とも言い難かった。自分の将来が見えていない20歳で性愛を区別できていなかったときと、自分の意志で生き方を決められる36歳では状況が違うのではないかと思った。

 

 S子と一緒に棲んでいたとしたら、今の彼女のように更年期を迎えていたはずだ。そのときにS子への愛を証明するために無理に性交しようとしたのではないか、つまりその愛の証明の仕方が彼女とは違っていたかもしれない。もっとも50歳近くになっても、性愛とそれ以外の愛を区別できたわけではない。若いときと違って肉体的な衰えがあっても性欲はあった。

 

 入籍をして彼女を安心させることも有効な愛の証明だったのではないか。本当に愛していれば籍を入れる迷いは何ということもなかったはずだ。やがてお互いに仕事が忙しくなって家で食事をともにする頻度が少しずつ減っていった。彼女は衰えかけてきた肌を見られるのを嫌がり、バスルームで身体に触れることはなくなって、寝る前にベッドでパジャマ姿のままマッサージをして身体に触れた。

 

 

 

 性欲を覚えることはめったになくなったが、そうなったときに彼女と無理にでも交わりたいと思わなくなった。むしろ自分の体調を考慮して別宅のアパートで自分で処理するほうが気楽になっていた。仕事のストレスを感じたときは、ボソボソと話しかけながら彼女の身体をマッサージするだけでお互いに精神的な安定をもたらしてくれると信じていた。

 

 四十路半ば過ぎになっても、パジャマの上から触る肌の感触は柔らかかった。たまにそれだけで股間を硬くしてしまうこともあった。寝巻代わりにしているジャージのズボンが膨らんでいるのを見つけて、「あら」とクスっと笑って、下だけを脱いで上から覆いかぶさってきた。私が上になって動くと心臓に悪いと思っているらしいが、昔のように激しく動けないだけだった、心臓のせいではない。

 

 胸を見たいとパジャマの上を捲り上げようとすると恥ずかしがった。パジャマの中に手を入れて小さな乳房を愛撫すると、気分を高めるためなのか少し大げさに甘い声を出す。そして私の上に跨る。20歳の頃の私だったらすぐに果てていただろうが、私はもうすぐ50歳になろうとしていた。終わったあとに身体を凭れかけてきたが、私の気持ちを慮って演技をしていたのかもしれない。

 


 

 S子の仕事のことについては、とくに関心を払ってこなかった。正社員だったが教室長のような塾のマネジメントを任されることがないので、給料は男性講師ほど高くなかった。学校教員は同じ年齢なら給料に男女差がないが、その点は同じキャリアでも差が付いた。最近では女性の学校教員も結婚・出産で退職しなくなったので、校長や教頭などの管理職を求められた。この頃から小学校で女性管理職が急増した。

 

 主婦のパート就労と違って、女性1人が生きていくとしたら何とかなる収入だったが、2年前からしだいに教室マネジメントの仕事もさせられ、ストレスが溜まったようである。夕方からの勤務が長くなって、帰るのが遅くなった。休日は早く帰宅するので一緒に過ごせたが、私が忙しくなっていたため、旅行などは一緒にしなくなってしまった。

 

 更年期障害は女性ホルモンの減少だから、性交渉の充実とは直接関係がないらしい。性交渉があってもなくても女性ホルモンの変化に影響は少ないが、環境の変化で女性ホルモンの分泌に影響を与えるらしい。仕事の多忙を紛らわすという年齢ではなくなってしまったのかもしれない。できるだけ長く一緒にいて精神的に安定することが大事だったかもしれない。

 

 S子は40歳代後半になっていたので、閉経前の更年期障害の可能性は高かった。一般的には更年期障害は閉経をはさんで10年くらいだと言われている。その間女性ホルモンの分泌が揺らぎながら徐々に減っていくことになる。このときパートナーの役割は重要なのだが、日本人の男はちょうどこの年頃に仕事が忙しくなるために役に立たない。熟年離婚の原因だと言われる所以であろう。

 

 その年の年末に私は心電図の検査で心臓の不整脈が発見されてしまった。学期が終わる2月中旬に大学病院でカテーテルアブレーション手術をすることにした。心房細動が起こらないようにカテーテル(医療用の管)を太腿の血管から通してアブレーション(心筋焼灼)する手術で、切開したりしないので患者の負担が小さく、短期間で退院できる。リスクが小さい術法なのだが、万一のために連絡先は必要だったため、S子の携帯電話(当時はガラ携)に連絡が行くことになっていた。

 

 手術の前日に仕事終わりに見舞いにきたが、手術当日と手術後には成功の連絡が入って見舞いには来なかった。入籍していなかったので単なる同居者にすぎなかったが、彼女への愛情を確認する機会になった。もし入籍していたら、世間体を気にして毎日見舞いに来ただろうかと想像した。世間体ということを想像しただけでも嫌な気分になった。私自身がそういう職業だから仕方ないのだが。

 

 

 カテーテル手術なので執刀医とは言わないのかもしれないが、大学病院の講師くらいの年齢の主治医が手術について説明してくれた。腕はいいらしいのだが、患者へのインフィームド・コンセントなどのインサイドワークが苦手だったために婦長に急っつかれたらしい。大学病院なので研修医時代から婦長に頭があがらない。数年後に大学病院からどこかに転出したと聞いた。

 

 入院した日に睡眠のモニターをしていて、無呼吸症候群も発見された。心臓疾患と違って症状がわかりやすい。無呼吸症候群とは就寝時に息が止まるので死に至る可能性もあった。少なくとも眠りは浅くなるので睡眠による疲労回復は妨げられた。S子とは同じベッドで眠ることはなかったので気付かれなかったか、言ってくれなかっただけかもしれない。

 

 退院後の治療の方法はCPAPという鼻呼吸で正常な呼吸を促すマスクを装着して就寝した。喉が就寝時の呼吸を阻害していびきは激しいらしい。自ずとベッドは別々になった。意識せずに一緒に眠りに落ちてしまったとき以外では、ベッドをともにしたことはなかった。私は基本的に孤独を愛する性格だったのかもしれないが、助手部屋時代に論文を書いているときの集中できない環境が身にしみていたのだ。少なくとも社交的ではなかったので、研究室の助手は向いていなかった。

 

 人生で一度だけ強烈な孤独を味わったときがある。交際していた人のアパートが空っぽだったときだ。空っぽの空間は私の心の中を映しているようだった。大学に入学してもしばらく心の中の空洞は存在し続けた。受験の世界から学問の世界に無理なく切り替えられたのはこの心の空洞だったかもしれない。

 

 

 前1800年頃~前1500年頃の二里頭文化と称する中原に広がる青銅器文明は炭素同位元素よる推定なのでほぼ間違いない。問題は夏王朝が商(殷)王朝に滅ぼされたのが前16世紀とされるので、二里頭遺跡そのものは商王朝の初期にかかる可能性がある。下掲は二里頭で発見された青銅器の酒爵であるが、そうなると、夏王朝は新石器時代から青銅器時代にかけてだったかもしれない。

 

 

 

 商王朝に先行する夏王朝の実在が証明されたが、夏王朝はメソポタミアで言うならば、シュメール人のウル・ウルク・ラガシュの都市国家の連合体だった可能性がある。まして始祖禹王の実在が証明されたわけではない。アッカド人のサルゴン2世のように、夏王朝の禹王が中原の征服者であったかどうかは全くわからない。

 

 「史記」の夏本紀によると、禹王の父とされる鯀(こん)は帝尭によって起用されて治水に失敗して、尭の後継者である帝舜に羽山に追放されたことになっている。下掲のような魚のような姿になったという。つまりあくまでも神話によると、中原を治めた領域の中から鯀が登場し、その罪人の子の禹が舜に治水事業に登用されたことになる。

 

 右の大禹治水図のレリーフに描かれている鋤は治水に用いられたという。少なくとも言えることは中原では治水の能力が問われたということだけがわかる。中国の神話にも、伏義・女媧、共工のように洪水伝説は神話の中に繰り返し語られている。黄河中流域の中原が洪水に苦しめられた歴史を反映しているのだろう。これについては、いずれ述べねばならない。

 


 

 夏の禹王から帝王の世襲が始まったという伝説(史記夏本紀)があるが、それ以前は帝王は世襲ではなかったというのである。三皇五帝の時代というのだが、それも神話めいた物語であり、史記を著した司馬遷は三皇本紀を書いていまいが、五帝本紀から書いている。司馬遷は舜から禹への禅譲を史実であるかのように描いている。二里頭遺跡の発見も夏王朝の存在に結び付けようとしたのかもしれないが、考古学は日本の纏向遺跡の発掘と同様に、先史時代の歴史には無責任なのである。

 

 夏王朝の禹王の実在性すら怪しいのだから、歴代の夏王朝の王の存在も史実としては怪しい。3代目の太康が東夷の羿(げい、民族か?)に攻められて失国したという。下掲は尭の時代に弓の名手であった羿が2つ以上ある太陽を撃ち落としたという神話である。

 

 下掲は夏王朝の支配領域と遷都を示しているが、これとて神話(夏本紀)の中の叙述である。元の都が黄河南岸の陽城であり、夏王朝の後裔は山西の汾水流域の晋陽に亡命したかにみえる。やがて下流の安邑からから中原に遷都したというストーリーだ。このストーリーから夏王朝は山西から興って中原の都市国家を征服したという仮説もあるくらいだ。

 

 

 さらに夏王朝の桀王が商王朝の天乙(湯王)に放伐されたことになっている。これが易姓革命の始まりであるとされるが、これも史実かどうかわからない。商王朝がどこから来たのかわからない。いずれにしてもこうした神話を歴史に読み代えようとする意図は私のような素人には顕著になる。

 

 メソポタミアで都市国家が形成され始めた紀元前4000年頃に楔形文字が誕生した。
紀元前2500年頃には、シュメール文字に発展し、複雑な内容を記述できるようになった。メソポタミアの歴史時代はこの頃始まり、文字で歴史がわかるようになった。シュメール文字は、シュメール語だけでなく、アッカド語・ペルシア語など、様々な言語を記述するために利用された。

 

 紀元前2500年頃まで、メソポタミア南部はウル・ウルク・ラガシュなどの都市国家が並立していたが、セム系の語族とされるアッカド人が侵入して都市国家群を征服して領土国家アッカド王国を形成したとされる。ところがこのアッカド人はどこからきたかわからない。下掲の図のようにチグリス・ユーフラテス川の中流域という説である。

 

 

 紀元前22世紀にアッカド王国はザグロス山脈一帯にいたグティ人によって滅ぼされたという。紀元前2100年頃にウル第3王朝によって再統一されたが、セム系とされる西方から侵入したアムル人によって征服された。紀元前1800年頃にアムル系の都市国家を統一したのが古バビロニア王国だった。よく知られたハンムラビ王はアムル人による王朝だった。しかし、紀元前1600年頃にトルコ高原から侵入したヒッタイト人によって滅ぼされたとされる。

 

 ヒッタイト人がバビロンを去ったあと、紀元前1500年頃にカッシート人による王朝(バビロン第3王朝)が築かれた。このカッシート人もザグロス山脈にいたという説が有力であるが、よくわかっていない。そしてメソポタミア北部に割拠していたアッシリアの侵入によってしだいに劣勢になり、カッシート人によって継承された古バビロニア王国は前8世紀にアッシリアの支配に組み込まれた。アッシリアはエジプトをも征服してオリエントを一時統一することになった。

 

 

 このような図式は文明が周辺地域に拡大するという中華思想は、実は周辺地域の未開民族が文明地域を征服することによって文明地域はハイブリットな文明に更新されていく図式がみとめられる。メソポタミアの図式を中国文明に当てはめれば、黄河中華流域の中原といわれる地域はチグリス・ユーフラテス川の中下流に相当する。紀元前2070頃~前1600年頃の中国最初の夏王朝は中原にあった都市国家を統一したのではないだろうか。メソポタミアで言えば、前2500年頃にメソポタミア南部を統一したアッカド人は夏王朝の伝説の始祖禹王ではなかろうか。

 

 

 

 中華思想とは文明地域が野蛮地域を差別化するときに使う。「中華」の「中」は中央(center)、「華」は文明とでも言えばよいだろうか。この空間的な表現としては「中原(ちゅうげん)」という言葉がある。中国文明が興った黄河中下流域の平原の意味である。中原は黄河中下流域に固定されるが、中華は中国文明が広がっていくことによってその範域も広がった。

 

 

 統一帝国が築かれるまでは野蛮な民族である東夷・北狄・西戎・南蛮は中国大陸の内部にいたが、統一王朝が中国大陸を支配すると、その外に存在した。東夷は朝鮮・琉球・倭、北狄は匈奴・鮮卑・モンゴル・契丹など、西戎はチベットや回族(イスラム)、南蛮はベトナム・東南アジアとなっていく。中華思想は統一王朝によって拡大解釈されたことになる。

 

 中原の範域は東は泰山、西は崋山だったが、周王朝が渭水盆地の関中(函谷関など)の内側から殷王朝を滅ぼしたので華山以西も含まれるようになった。もっとも周の都が東の洛陽に遷ってから(東周)は洛陽付近が中原の中心に位置すると考えられた。たしかに中原は文字や青銅器文化が興った文明の中心だった。織田信長が稲葉山城の井の口を岐阜と名付けたが、関中の岐山から魯の都曲阜から採ったとされる。中原の西端と東端である。

 

 後漢から三国時代(魏と晋は洛陽)から南北朝時代(北魏)は都を洛陽に遷都するが、隋と唐の統一王朝は関中の長安から都を離れなかった。秦漢帝国や隋唐帝国は中心から外れた関中に都を置いたために、軍事的安定が保たれた。南北朝時代の北魏は山西の平城から中原の洛陽へ遷都している。洛陽やその東で黄河南岸の開封は五代の王朝や北宋が都にしている。東西南北の十字路であり、文明の中心になりやすいが、同時に軍事的には侵入されやすいので統一が難しい地勢なのだろう。

 

 やがて征服王朝の満州系の女真族の金王朝は現在の北京を都として中国の北半分を支配し、モンゴル帝国の元王朝は長江流域を含む中国全土を支配する統一王朝となった。以後初期の明王朝の南京を除いて、明清帝国も北洋軍閥も中国共産党も中国全体としては北に偏っている北京から中国大陸を睨む形である。


 台湾は1970年代に国連代表権を失い、政治的には国際的に孤立する一方で、1980年代からグローバルな資本主義経済に組み込まれていった。中国本土では共産党の指導による社会主義市場経済という形でグローバル経済を志向したが、台湾は民主化とという政治体制を志向した。

 

 米国のレーガン政権が戒厳令を解除するよう圧力を掛ける。1987年に国民党の蒋経国は戒厳令解除に決断して、集会・結社・デモが認められることとなった。1990年学生らによって国民党に政治改革と民主選挙を求めて大規模なデモを行なわれ、本省人として国民党の後継総統となった李登輝は1996年に台湾初の直接総統選挙を実施することなどを約束した。下掲左は1948年の蒋介石と蒋経国、右は孫文の写真を背景にした1988年の李登輝。

 

 

 大陸から移住して来た外省人とそれ以前から台湾に住んでいた本省人との対立、本省人の中でも、福老人(福建省からの移住者)と客家人(華南・台湾に多い移民集団)の対立があったが、1996年に総統選挙に勝利した国民党の李登輝政権はその対立をそのままにして、国際的にはアメリカの庇護下で、日本・韓国・フィリピンとともに共産圏封じ込め政策の一角を担っていた。

 

 2000年の総統選挙では民進党の陳水扁(副総統・呂秀蓮)が当選し、国民党に代わる政権交代を果たした。陳水扁は台南の小作農出身で、1986年の民進党結成とともに政治活動を始め、1989年に立法議員に当選した。1994年に台北市長に当選して、外省人の多い首都台北でも民進党の支持を伸ばした。

 

 

 2000年の総統選挙でも民進党・陳水扁は39%を得票して勝利したが、下掲のように南西部の台南・台中と北東部の基隆周辺で多く得票している。次点となったのは国民党候補の連戦(得票率23%)ではなく、国民党から別れた当時無所属(のち親民党結成)の宋楚瑜(得票率37%)がだった。事実上国民党の票が分かれて民進党が辛勝する結果だった。右は人口分布を示しているが、宋楚瑜がより多く得票したのは東岸と山岳の人口希薄地域だった。

 

 

 2004年は民進党と国民党・連戦と親民党・宋楚瑜の連合による総統選挙となったが、50.1%と49.9%の接戦となり、陳水扁が2期目に入った。これは台湾住民の独立意識の高まりと、米国経済の復調で輸出が伸びたためとされる。この選挙では独立志向を支持する李登輝が民進党支持を表明した。中国人民解放軍は独立志向の民進党政権に対して、台湾海峡で軍事的なデモンストレーションをおこなった。

 

 しかし、2008年と2012年には馬英九が得票率58%と52%で総統選挙で勝利して、8年間は国民党政権となった。一方、2016年と2020年は蔡英文が得票率58%と57%で勝利して民進党政権となった。いずれの場合も大票田である台北大都市圏での勝利が条件となり、韓国の大統領選挙のように地域主義と首都圏の世論が政権に影響している。2024年の総統選挙も民進党の頼清徳が得票率40%で勝利したが、第3勢力である台湾民衆党が26%の得票を得ている。

 

 

 

 

 1949年に中華人民共和国が成立してから、事実上蔣介石の中華民国政府による台湾の直接統治が行なわれることとなった。人口6百万の台湾に政府・軍関係者、共産政権を懼れる大陸住民百万人の外省人が流れ込んだ。蔣介石は中華民国政府を再組織した上で、1950年に3月に再び総統として台湾での中華民国政府の活動を本格的に開始した。共産党の脅威を抵抗するために台湾は全域が戒厳令が布かれ、台湾の住民は政治的抑圧を1987年まで受け続ける。

 

 中華民国政府は国際社会における「中国を統治する唯一の合法な政府」としての地位を主張し、1971年まで国際連合の「中国」の代表権を保持しつづけた。東アジアにおける「反共の砦」としての地位を米国に認めてもらうことで、「中国を統治する政権」として中華民国の存在を維持しようとした。大幅に譲歩をした上で日本とも平和条約を締結した。下掲は1957年に台湾を訪問した岸信介首相を囲む蒋介石・宋美齢夫妻。

 

 

 1960年代半ば以降、外国企業の下請けとして繊維・電子機器を手掛ける本省人の中小企業が主体となって、台湾の経済成長率は10%を超えた。また、ベトナム戦争が激化すると、アメリカは台湾から軍需物資を調達し、その代償として外貨であるドルが大量に流入したことも大きく寄与した。このころから台湾経済はアメリカ経済との関係を親密化させていった。下掲は1960年にトルーマン大統領が台北を訪問した時の写真で、隣に蒋介石が座っている。

 

 

 ところが、1971年ニクソン大統領による米中接近で、国連で中華人民共和国を中国唯一の代表とする決議が採択され、台湾は国連から事実上追放された。1975年蒋介石が亡くなり、息子の蒋経国が後継者になったが、政治的にはアメリカや日本との国交は断絶された。しかし、米国の商業的、文化的、およびその他の台湾の人々との交流は、民間の非営利団体である米国在台湾協会を通じて促進されている。

 

 1980年代後半になると外国資本を積極的に誘致したグローバルな資本主義経済を導入、台湾経済における政府の役割を縮小し、公営企業を民営化していった。電子産業を中心とした先端技術産業に特化した産業構造を確立した。

 

 民主化運動はこのグローバルな経済を構築する過程で実現されることになった。このあと民進党政権が誕生する2000年まで十数年かかったが、韓国でも金大中政権が誕生したのもその数年前だったことは東アジアの時代の動向を感じざるをえない。