気が早いが、アメリカと日本の決勝戦になると想定して、現在出場が決まっている選手のうち、14人の投手は勝敗数、防御率、奪三振(80以上)、2人の捕手と11人の野手は打率、本塁打数、打点、盗塁数(20盗塁以上)を並べてみよう。

 

投手 ポール・スキーンズ パイレーツ 10勝10敗 防1.97 奪三振216
投手 ギャレット・ウィットロック Rソックス 7勝3敗 防2.25 
投手 マシュー・ボイド カブス 14勝8敗 防3.21 奪三振154
投手 ノーラン・マクリーン メッツ 5勝1敗 防2.06 
投手 クレイ・ホームズ メッツ 12勝8敗 防3.53 奪三振129
投手 ジョー・ライアン ツインズ 13勝10敗 防3.42 奪三振194
投手 タリク・スクーバル タイガース 13勝6敗 防2.21 奪三振241
投手 ローガン・ウェブ ジャイアンツ 15勝11敗 防3.22 奪三振224
投手 デビッド・ベッドナー ヤンキース 6勝5敗27S2.30 
投手 メイソン・ミラー パドレス 1勝2敗22S 防2.63 奪三振104
投手 グリフィン・ジャックス レイズ 1勝7敗 防4.23 奪三振99
投手 ゲーブ・スパイアー マリナーズ  4勝3敗 防2.61 奪三振82
投手 クレイトン・カーショー 前ドジャース 11勝2敗 防3.36 奪三振84
投手 ブラッド・ケラー フィリーズ   4勝2敗3S 防2.07 
捕手 カル・ローリー マリナーズ .247 60本 125点
捕手 ウィル・スミス ドジャース .296 17本 61点
内野 ボビー・ウィットJr. ロイヤルズ .295 23本 88​点 38盗塁
内野 ガナー・ヘンダーソン オリオールズ .274 17本 68点 30盗塁
内野 ブライス・トゥラング ブリュワーズ .288 18本 81点 24盗塁
内野 ブライス・ハーパー フィリーズ .261 27本 75点
内野 アーニー・クレメント ブルージェイズ .277 9本 50​点
内野 アレックス・ブレグマン カブス .273 18本 62点
外野 アーロン・ジャッジ ヤンキース .331 53本 114点
外野 コービン・キャロル Dバックス .259 31本 84点 32盗塁
外野 ピート・C・アームストロング カブス .247 31本 95点 35盗塁
外野 カイル・シュワーバー フィリーズ .240 56本 132点
外野 バイロン・バクストン ツインズ .264 35本 83点 24盗塁

 

 一言で言えばアメリカは本気らしい。2023年のWBCの敗北がかなり悔しかったようだ。ちなみに赤字はオールスター出場者で何と14人もいる。外野手に至っては5人全員オールスターに出場している。誰を先発にするか迷うくらいだ。シュワーバーはDHだろうから、ジャッジ、PCAとあと一人。内野の守備ではブレグマンのサードとウィットJrのショートは決まりだ。ファーストとセカンドは迷う。

 

 野手ではジャッジの数字はMVP級だ。ローリーの長打力も図抜けている。ウィットJrや大谷の同僚ウィル・スミスの打率は両リーグのベストテンだ。おそらくウィットJrが1番打者で、ジャッジ、シュワーバー、カル・ローリーのクリーンナップは脅威としか言えない。下掲は左からジャッジ、シュワーバー、ウィットJr。

 

 

 投手で言えば、15勝のウェブ、14勝のボイド、13勝のライアンとスクバル、防御率1.96のスキーンズ、2.06のマクリーン、2.07のケラーはMLB各チームのエース級だし、ベッドナーやミラーは抑えのエース級だ。決勝はスクーバルだろうか。下掲はスクバル、ウェブ、ボイド。投手ではジャパンも遜色ないと思う。

 

 

 単純な戦力の合計ではアメリカチームにはとても敵いそうもないが、野球はチームプレーだ。昨年のドジャーズ対ブルージェイズの熱戦を思い出してもみよう。結果はドジャーズがチャンピョンになったが、ブルージェイズの善戦には心打たれた。私は大谷や山本がいるドジャーズではなくて、いつの間にかブルージェイズを応援していた。トロント・ブルージェイズは実にいいチームだ。ジャパンもチーム力で強敵アメリカと戦ってほしい。

 

 

 冒頭に掲げたポスターは毛沢東を社会主義の正統派として位置づけたポスターで、マルクス(馬克思)・エンゲルス・レーニン(列寧)・スターリンの次に毛沢東を位置づけている。ソ連のフルシチョフ批判を特徴づけている。「毛沢東思想」というフレーズは中国の人民、とくに建国後に生まれた若者に刷り込まれていった。毛沢東が紅衛兵という若者を文化大革命に動員した背景にはこうした宣伝活動があった。

 

 大躍進政策の失敗でさすがの毛沢東も1959年に国家主席を辞任したが、なお中国共産党の中央政治局主席と軍事委員会主席は手放さなかった。毛は経済政策的には敗北したが、なお権威において失墜していなかった。毛沢東の権威が失墜しなかった背景には、この時期共産党大会は開催されず、中国の惨状が毛沢東の責任だと認識されていなかったのではないだろうか。「毛沢東思想」だけが一人歩きしていたのだろう。

 

 経済に弱いの毛沢東の狙いが思想・文化的な反撃だったことは彼のキャラクターをよく示している。毛沢東は劉少奇ら経済の再建を担う実権派を走資派(資本主義の道へ進む実権派)と呼んだ。自分が苦手な実効性のある経済政策を「毛沢東思想」に反する右傾化・修正主義と決めつけたのである。思想闘争に持ち込むことは延安時代の整風運動の成功で毛沢東は味をしめていた。もっとも延安時代のようなやり口は中華人民共和国建国後に膨れ上がった中国共産党では、党中央の限定的な社会に持ち込む必要があった。この時期に党大会を開こうとしなかった所以であろう。

 

 下掲左の写真は李富春が1960年に八字方針(調整・統合・充実・強化)なる経済再建政策を提案している。右の写真は1964年に鄧小平・羅瑞卿が黒竜江省の大慶油田を視察してで現地責任者の王進喜に説明を受けている。下段は1965年7月、北京地下鉄起工式の北京市長彭真と朱徳・鄧小平。

 

 

 文化大革命の先駆けとして1962年の反党小説「劉志丹」事件がある。これは党の文化・教育部門を任されていた康生(1898-75)が小説の出版を問題視し、出版を許可した習仲勳(1913-2002、習近平の父)らを批判した。康生は1950~55年に統合失調症で長期休養していたが、1956年に党に復権していた。1962年9月の第8期八中全会(中央委員会全体会議)で毛沢東からもすでに粛清された高崗の名誉回復を企てる(かつて陝西省の同僚)として批判され、習仲勳は失脚した。下掲は1958年頃(劉志丹事件の4年前)の習仲勳と息子の習近平。

 

 

 1963年7月に鄧小平を団長とするソ連共産党との調整会議の代表団(写真はモスクワを闊歩する鄧小平・劉少奇・朱徳・周恩来・彭真・楊尚昆)の中で、ひとり康生は対ソ強硬派として、フルシチョフ政権を批判した。写真は康生の帰国を出迎える毛沢東。毛沢東は康生を延安時代から再び「龍の爪」として権力闘争の汚れ役として使うことになった。

 

 

 毛沢東の政治秘書であり、毛沢東思想の伝達者といわれた陳伯達(1904-89)は1958年に中国共産党機関紙「紅旗」の編集長となった。康生と陳伯達はすでに1950年代後半には毛沢東の側近となっており、毛沢東思想を広めるために貢献した。毛沢東は中央文革小租という組織を作って彼をその組長にしたが、康生や江青(毛沢東の妻)ら四人組は彼を馬鹿にしていた。 

 

 きっかけは1961年に発表された吳晗の戯曲「海面罷官」を「プロレタリア独裁と社会主義に反対する<毒草>」と、1965年11月にのちの四人組の姚元文が上海の日刊紙「文匯報」で批判したことである。姚元文は北京の副市長だった吳晗の上司である彭真(1902-97)、さらには国家主席の劉少奇に対する批判を意図していた。12月に毛沢東は作中の海瑞を自分を批判した彭徳懐に結びつける談話を発表した。

 

 彭真は論争を学術の枠内で収めるように図って党内の了承を得たが、毛沢東はこれを誤っていると翌1966年4月に批判した。5月に共産党中央政治局拡大会議で党内の収収拾を撤回して「文化大革命」の推進に舵を切った。彭真が陸定一(1906-96)、羅瑞卿(1906-78)、楊尚昆(1907-98)と結託した「反党集団」であると林彪(1907-71、国防部長)から非難されて失脚した。背景には実権派の文化部長陸定一と康生の対立、国防副部長羅瑞卿と林彪の対立、実権派の要だった中央弁公庁主任(内閣官房長官に相当)の楊尚昆に標的を定めたことがあった。下掲は江青と林彪・葉群夫妻。

 

 

 江青ら四人組は文革期には「上海帮」といわれ、上海で活動していた。上海市政府の首脳部を糾弾して失脚に追い込んだ。姚元文は張春橋(1917-2005)に引き立てられ、張春橋は毛沢東の妻江青(1914-91)に引き立てられたといわれる。康生、江青、張春橋は山東省出身だったが、偶然だろうか。四人組の中で最も若い王洪文(1935-92)は労働者代表として上海市造反派の指導者となり、のちに中央に異動する。

 

 

 1959年4月の第2期第1回の全人代で毛沢東は国家主席を辞任し、劉少奇が新たな国家主席に就任したが、共産党中央委員会主席と軍事委員会主席は毛沢東が継続して就任した。全人代常務委員長は朱徳に代わり、国務総理と政治協商会議の主席は周恩来が続けた。共産党の指導的地位を謳っている中華人民共和国における毛沢東の権力は揺るがなかった。

 

 大躍進政策の失敗が明らかになった1959年7・8月の江西省の廬山会議(中央政治局拡大会議と八中全会)で、軍ナンバー2の彭徳懐(1898-74)が大躍進の失敗に対する毛沢東の責任を追及して、彭徳懐の意見に同調する者が出たため、権力に対する脅威と捉えた毛は党全体に対する攻撃として反撃した。彭徳懐は湖南省出身で毛沢東の湖南派の分裂でもあった。劉少奇(湖南派)や朱徳らが日和見を決め込むなか、林彪(1907-71)が毛沢東の大躍進政策を擁護した。彭徳懐らは反党集団として失脚した。

 

 日本では昭和前期の軍人のイメージがあるので、昭和前期に軍人は暴走すると我々は刷り込まれてしまったが、軍人というのは意外に合理的な判断をする。どちらかというと政治家のほうが暴走するらしい。彭徳懐は科学的に大躍進政策の稚拙さをこっそりと手紙で毛沢東に知らせようとしたが、毛沢東はその手紙を公開してしまったことから廬山会議の顚末になったようだ。最近習金平政権の軍ナンバー2が粛清されたが、毛沢東と彭徳懐(2人は湖南閥)のように親密な関係だったようだ。何やら「いつか来た道」だ。

 

 彭徳懐は前年の1958年にソ連のフルシチョフに接近して、軍の近代化を図る方針を立てていたが、毛沢東はあくまでもゲリラ戦のような前近代的な戦法に拘っていた。毛はフルシチョフ批判を展開していて、彭徳懐と意見が対立していた。廬山会議にはすでに火種があった。下掲は1958年のフルシチョフ第一書記と彭徳懐の会見、間にいるのがブルガーニン元帥(首相)、彭徳懐の後ろには同年に創設された軍事科学院院長の葉剣英(1897-1986)がいる。

 

 

 廬山会議が終わった1959年9月に人民大会堂が竣工(下掲左は建設中)し、おそらく10月に完成後に皮肉にも彭徳懐らが目指した近代的な軍事装備の高射砲の閲兵式(下掲右)が行われている。1960年の全人代は行われたが、翌年はおそらく大躍進政策の惨状のために実施されなかったのだろう。国家主席になった劉少奇や鄧小平などが大躍進の失敗の尻拭いに躍起になっていた。

 

 

 劉少奇らは大躍進政策の行き過ぎには気づいていたが、総路線そのものに反対することはできなかった。延安で整風運動に携わった劉少奇は毛沢東の「政治力」を熟知していた。共産党中央委員会主席の毛沢東崇拝は変わらなかった。1962年1月の七千人大会といわれる中央工作会議で、劉少奇は「三分の天災、七分の人災」と大躍進と人民公社の敗因を評価した。毛沢東はただ一度の自己批判を行ったが、この時も大躍進・人民公社の失敗を「天災」によると信じていたという。農業面では人民公社の拙速だが、工業面では土法炉という鉄の粗悪品を生産するだけの稚拙な設備だった。土法炉は延安時代に自給用の銑鉄を生産するだけだった。

 

 

 公式には七千人大会は下覧左のような合成写真が公表されたが、実際は右のように毛沢東は他の政治局常任委員に責任を追及されていた。左は和やかに談笑しているようにみえるが、右は実務を担当していた劉少奇・陳雲・鄧小平らに囲まれて、毛は大会資料を丸めて不快感を露わにしている。左には朱徳が写っておらず、右に陳雲と同じく東北民主連軍の政治委員をしていた彭真(1902-97)がいる。周恩来は慎重に様子を伺っているようにみえるのが興味深い。毛沢東は実権から遠のいたが、この時彼を批判した幹部を「実権派」と呼んで、やがて4年後に文化大革命を起こす。

 

 ボストン・レッドソックスが吉田正尚のWBC出場を容認したようだ。肩の調子がよくわからないが、井端監督は吉田にオファーを出していることはたしかなようだ。肩の調子がよくないようであれば、DHでも代打でもいいからWBCに出場してほしい。大谷翔平がドジャーズの要望で投手として登板せず、DH専門になりそうなので、吉田は代打の切り札だろう。中野拓夢説を唱えたが、そもそも2023年WBCの源田の怪我は想定外だった。

 

 そうすると、あとは守備のポジションだ。前回あげた内野手7人と外野手4人のリストにレギュラーシーズンのポジションを付け加えてみよう。

 

右内野手 1998年 2 牧秀悟  DeNA    2023 .325 49 セカンドほか

右内野手 2000年 3 小園海斗 広島    初出場 .365 47 サードほか

右内野手 1992年 5 牧原大成 ソフトバンク 2023 .317 49  セカンドほか

右内野手 1993年 6 源田壮亮 西武        2023 .269 20 ショート

左内野手 1999年 7 佐藤輝明 阪神        初出場 .345 102 サード

右内野手 1996年 25 岡本和真 ブルージェイズ  2023 .416 49 サードほか

左内野手 2000年 55 村上宗隆 ホワイトソックス 2023 .379 47 サードほか

左外野手 1993年 8 近藤健介 ソフトバンク  2023 .410 41

左外野手 1996年 20 周東 佑京 ソフトバンク 2023 .357 36

右外野手 2000年 23 森下翔太 阪神   初出場 .350 89

右外野手 1994年 51 鈴木誠也 カブス  初出場 .346 103

 

 内野手7人は内野だけでなく外野も経験がある選手が少なくないが、外野手の近藤健介と鈴木誠也の先発起用は固いだろう。そうなると守備と壮行試合などの打撃の調子で内野手がきまりそうだ。源田のショートは絶対なので、あとはファースト、セカンド、サードを打撃の調子で先発を決めるだろう。

 

 今のところはレギュラーシーズンの数字だけで判断せざるをえないが、それでもこれだけの実績を残している選手だから様々な組み合わせが考えられる。単純にシーズンの出塁率と打点で選べば、100打点以上の佐藤輝明と鈴木誠也、出塁率4割以上の岡本和真と近藤健介は先発で選びたい。佐藤は最近は外野を守っていないのでサードだとすると、岡本はファーストだろうか。小園海斗の打撃も見てみたい気がする。

 

 難しいのはセカンドだ。牧秀悟と牧原大成の出塁率と打点の数字がほぼ同じだ。村上宗隆の使い方が難しいが、外野手として先発させる可能性もある。個人的には一番打者周東佑京も見てみたい。このメンバーだとスモール・ベースボールにはなりにくいが。

 

 

 

 

 

 春節は旧暦の元日(旧正月)にあたるので、新暦では毎年日付が変わる。今年の春節は2月17日。旧暦は月の満ち欠けを基準として作られ、新月の日が月の始まりとされるため、旧暦の元日にあたる春節は新暦では1月下旬から2月中旬ごろの間で毎年変動する。おおよそ立春近くの新月の日が春節ということになるが、1か月くらいずれるので毎年のように変わる。ちなみに昨年は1月29日で8連休だった。英語では Chinese New Yearや Lunar New Yearと呼ばれている。

 

 中国では春節当日だけでなく、その前後を含めた長い祝日が設けられる。今年は2月15日から23日の9連休となる。9連休にするために前後の2月14日(土)と28日(土)を振替出勤日にしている。多くの企業や学校が連休となり、都市部から地方へと人々が移動するので「民族大移動」などといわれる。「一年の始まりを家族とともに祝う」という点では日本の正月休暇に似ている。一方で旅行も活発になるので国内外の観光業界にとって非常に大きなチャンスになっている。

 

 現代の中国では新暦の1月1日も休日となるが、伝統的な行事としては春節のほうが圧倒的に重い。1949年9月の建国前の政治協商会議において、建国記念日の国慶節とともに春節は休日になった。今年は国慶節の前後7連休であり、この時期も民族大移動が起こる。日本の旧正月である立春はグレゴリウス暦が基準となったため2月3日か4日で、前日の節分は2月2日か3日となる。連休にならない可能性があるので「民族大移動」は起こらない。春節と国慶節は日本でいえば年末から正月までや4月末から5月上旬にかけてのGWのように交通機関が混雑する。

 

 春節を祝う国や地域は中国・台湾・香港以外にも多い。いずれも「家族で過ごし、新年の幸福を願う」という点は共通しているが、習慣や過ごし方にはそれぞれの文化に根ざした特色がある。例えば、韓国ではソルラル(설날)といわれ、先祖を供養する儀式や伝統料理、韓服を着た家族行事が中心となる。トゥクク(떡국)という雑煮(写真左)が食べられる。ベトナムの「テト」は桃の花や赤・金の飾りで街が彩られ、バインチュン(写真右)というちまきなどの正月料理が並ぶ。シンガポールやマレーシアでも中華系住民を中心に祝賀ムードが広がる。

 



 

 

 2026年3月から始まるWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の出場選手がついに出揃った。下覧はポジション(左右投打)、生年、背番号、氏名、所属チーム(MLBが8人)、代表歴(初出場が11人)、昨シーズンの成績(投手は防御率と勝数またはセーブ(ホールド)数、捕手と野手は出塁率と打点)である。ただし、大谷翔平は打者としての成績。捕手の成績が把握しにくい。間接的な指標だが出場した試合の防御率でもいい気がする。

 

投手 1995年 1 松井裕樹 パドレス 2017/23 3.98 3S 

投手 2001年 13 宮城大弥 オリックス 2023 2.39 7勝

右投手 1997年 14 伊藤大海 日本ハム    2023 2.52 14勝

右投手 1999年 15 大勢   巨人      2023 2.11 46H

右投手 1994年 16 大谷翔平 ドジャース 2023 .392 102

投手 1991年 17 菊池雄星 エンゼルス 初出場 3.99 7勝

右投手 1998年 18 山本由伸 ドジャース 2023 2.49 12勝

右投手 1989年 19 菅野智之 FA     2017 4.64 10勝

右投手 1998年 26 種市篤暉 ロッテ   初出場 2.63 9勝

右投手 2002年 28 髙橋宏斗 中日    2023 2.83 8勝

投手 2000年 47 曽谷龍平 オリックス 初出場 4.01 8勝

右投手 1999年 57 北山亘基 日本ハム  初出場 1.63 9勝

右投手 1999年 61 平良海馬 西武    初出場 1.71 31S

右投手 1996年 62 松本裕樹 ソフトバンク 初出場 1.09 39H

右投手 1997年 69 石井大智 阪神    初出場 0.17 36H

右捕手 1995年 4  若月健矢 オリックス  初出場 .314 31

右捕手 1993年 12 坂本誠志郎 阪神   初出場 .357 27

右捕手 1990年 24 中村悠平 ヤクルト   2023 .319 11

右内野手 1998年 2 牧秀悟  DeNA    2023 .325 49

右内野手 2000年 3 小園海斗 広島    初出場 .365 47

右内野手 1992年 5 牧原大成 ソフトバンク 2023 .317 49

右内野手 1993年 6 源田壮亮 西武        2023 .269 20

左内野手 1999年 7 佐藤輝明 阪神        初出場 .345 102

右内野手 1996年 25 岡本和真 ブルージェイズ  2023 .416 49

左内野手 2000年 55 村上宗隆 ホワイトソックス 2023 .379 47

左外野手 1993年 8 近藤健介 ソフトバンク  2023 .410 41

左外野手 1996年 20 周東佑京 ソフトバンク 2023 .357 36

右外野手 2000年 23 森下翔太 阪神   初出場 .350 89

右外野手 1994年 51 鈴木誠也 カブス  初出場 .346 103

 

 29人が選出されてあと1人が誰かが注目されている。発表は2月6日らしいのだが。WBCの実績から言えば、吉田正尚なのだが、吉田は昨シーズン調子が出なかったので、本人が迷っているかもしれない。いざという時の代打でもいいから出場してほしい。外野手はあと1人ほしい。阪神から5人目ということになるが、守備と犠打という点で中野拓夢かもしれない。

 

 

 先発投手の柱が防御率から山本由伸・伊藤大海・北山亘基・髙橋宏斗あたりは固い。左打線のときの宮城大弥は貴重だ。大谷翔平は抑えに回るかもしれない。あとは先発投手が崩れた時の中継ぎは大勢・松本裕樹・菅野智之・種市篤暉と豊富だ。井端監督がどういう継投を考えるか見物だ。

 

 ワンポイント禁止(3人まで対戦)になったが、右打者にも強い松井裕樹・菊池雄星・曽谷龍平と贅沢なくらいだ。最後は平良海馬・石井大智の抑えに繋ぐだろう。意外にピンチのときに大谷・菊池・松井を抑えに起用するかもしれない。これだけの投手陣ならば東京ドームのプールCの突破は固いが、野球は何が起こるかわからない。

 

 捕手は阪神タイガースのチーム防御率がダントツなのは坂本誠志郎の貢献は当然考えられる。オリックスの若月健矢は山本由伸を最もよく知る捕手だからだろうが、中村悠平はベテランの経験を買ったのだろう。坂本は出塁率が高く下位打線のポイントになりそうだ。

 

 監督はクリーンナップはたくさんいると語っていたが、やはり打点の多い鈴木誠也・佐藤輝明・森下翔太に後半調子が戻ってきた岡本和真あたりが軸になりそうだ。村上宗隆の使い方がポイントだが、代打の切り札だろう。打撃は2月下旬の合宿・強化試合など調子によって変わるかもしれない

 

 1番・2番は小園海斗や近藤健介の出塁率が図抜けているが、近藤を抑えて首位打者になった牧原大成にも期待できる。周東は代走の切り札だが、出塁率も悪くない。源田のショートの守備は絶対だが、故障した時に誰かほしい。阪神の中野はセカンドを守っているが、元はショートを守っていた。30人目に中野という推理の根拠だ。

 

 

 米国のメジャーリーグ(MLB)にロサンゼルス・エンゼルス(Los Angeles Angels)というチームがある。ロサンゼルスのAngelesはスペイン語でeがあるが、英語表記のAngelsと連続したチーム名は違和感を感じざるをえないが、チーム名は最初からエンゼルスだった。1961年にエクスパンション(チーム拡大)によって、ロサンゼルスに本拠地を置く「ロサンゼルス・エンゼルス」として創設された。

 

 MLB屈指の人気球団でもあるロサンゼルス・ドジャース(ニューヨークのブルックリン・ドジャースが1958年に移転)の影響のために観客動員数が伸び悩み、ディズニーランド(1955年開園)のあるアナハイムに新球場を建設することとなった。1965年まではドジャース・スタジアムを使用していた。1965年のシーズン終盤に「カリフォルニア・エンゼルス」と改称し、翌1966年ににアナハイムへ移転した。下掲はエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムで、チームカラーの赤が強調されている。TOYOTAのロゴも赤字に白。

 

 

 1996年にディズニーがチームの経営に携わるようになって、翌1997年には「アナハイム・エンゼルス」と改称した。2002年にワールドシリーズの初制覇の優勝パレードはディズニーランドでおこなわれた。ワイルドシリーズ制覇によって観客動員数は4万人を超えるようになり、経営は安定した。

 

 ところが、アルトゥーロ・モレノ(Arturo Moreno、最初のヒスパニック系のMLBチームの経営者といわれる)が2003年に球団を買収して、2005年にチーム名を「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」と改称した。エンゼルスはもともとロサンゼルス郡やアナハイムのあるオレンジ郡を含むロサンゼルス大都市圏のチームとして創設されたと球団側は主張したが、アナハイム市やファンは不快感を示して訴訟にまで発展した。しかしチーム名の「オブ・アナハイム」の部分は省略されることが多かったため、2016年には創設時の「ロサンゼルス・エンゼルス」と改称した。

 

 

 2013年にはマイク・トラウトを獲得し、2017年には大谷翔平を獲得したが、ポストシーズンから最も遠ざかっている球団となっている。2023年シーズンオフにはMVPとなった大谷翔平もドジャーズに移籍し、トラウトは怪我に苦しんでいる。2024年には球団ワースト記録を更新する成績になってしまった。球場の老朽化とともにロサンゼルス大都市圏の第2の都市ロングビーチへの移転が噂されるが、私は成長著しいラスベガス移転を予想している。ラスベガスならば、引き続きロサンゼルスを冠することはなくなる。 

 

 

 2月4日は「立春」だというのにまだ寒い。二十四節気では「大寒」の次で、立春というのは冬と春の境界にすぎない。寒中とは小寒と大寒の時期で立春を過ぎると寒中見舞いはできないだけだ。朝方には氷点下になるらしいが、大寒の続きだと言えばわかりやすい。立春(旧正月)の前日が節分だ。

 

 節分は宮中の年中行事で、季節の変わり目には邪気=鬼を追い払うための悪霊払い行事が起源だという。彩色した土で象った牛と童子の人形を大内裏の各門に飾った。

「土牛童子」といわれ、大寒の日の前夜の夜半に立てられ、立春の日の前夜の夜半に撤去された。大内裏外周にある東西南北の門に高さ2尺・長さ3尺の土牛(土人形)が立てられた。

 

 下掲大内裏の概略図だが、大内裏の東側大宮大路に面する陽明門・待賢門には青色、南側の二条大路に面する朱雀門(現在の二条城の数百m西、千本通)・美福門には赤色、西側にある藻壁門・談天門には白色、北側の一条大路に面する安嘉門・偉鑒門には黒色とここまでは四神相応でわかるのだが、郁芳門・皇嘉門・殷富門・達智門に中央を意味する黄色というのがわからない。たしかに達智門と皇嘉門、郁芳門と殷富門を結んだ線は大内裏の中央で交差する。

 

 上東門と上西門には単に築地を切り開いただけのもので屋根がない土御門だったからだろうか立てられない。上東門の出口には一条院があり、藤原道長の姉の詮子(東三条院)に献上され、詮子が産んだ一条天皇の里内裏となった。道長の娘彰子が上東門院と呼ばれたのもこのためである。

 

 中国で宮中で行われる新年の前日に邪気を追い払う行事として行われていたものが大陸から日本に伝わったようだ。平安時代の「追儺」といわれる現在も吉田神社(京都大学の東側の吉田山)に残っている。儺は鬼を意味する。下掲は1928年の「都年中行事画帖」。

 

 

 宮中行事としての「追儺」は武士の時代の鎌倉時代に衰えていって、江戸時代にはほとんどみられなくなったというのだ。宮中行事を離れて民間の「鬼やらい」の習俗として定着した。平安時代に鬼だった武士が権力を握ると、宮中行事として成立しなくなったのかもしれない。冒頭に掲げた鬼は酒呑童子だが、それを退治するのが武士の勃興期(10世紀末から11世紀初頭)の源頼光だったことを思えば、もはや呪いで鬼を撃退できない時代がやってきたのかもしれない。

 

 日本神話で乱暴狼藉をはたらいたスサノオを高天原から追放した神遂(かんやらい)は節分の鬼払いを象徴しているものだとすると、平安時代の「追儺」の原型として記紀神話が成立する飛鳥時代にはすでに存在していたのかもしれない。神であったスサノオが鬼として追放されるのが、日本神話はこのモチーフをどこからキャッチしたのだろうか。日本神話の神遂(かみやらい)の対象になったスサノオは高天原ではない下界の葦原中津国で中心的な役割を果たす。右の写真は大分県の庄内神楽。

 

 

 下掲の節分の絵は「北斎漫画」らしいが、葛飾北斎の発想力・デザイン力は秀逸である。武士らしき男が勧善懲悪と節分の習俗を建前にして庶民を苛めているようにみえるから不思議なのだ。善玉であるはずの者が反転する。北斎は「韓信の股くぐり」を描いているが、国士無双の韓信大将軍の反面をモチーフにして劇的な表現になっている。豆をぶつけている武士や町の無頼が鬼に見えてしまう。

 

 

 

 

 学生時代はとにかく社会勉強だと思って何にでも興味をもった。仏教研究会というクラブに顔を出すようになったが、なかなか入会金が払えずにいた。仏教に関心があったのではなく、勧誘してくれたS子という2年先輩と仲良くなったからだった。浄土真宗と結びついていたようで、入会金・活動費と称して学生から資金を吸い上げていた。当時統一教会を設立した文鮮明の国際勝共連合が日本にも進出していた。新左翼系の各セクトが弱体化したことによって勝共連合が学内でも幅を効かせつつあった。統一教会はキリスト教だったことから、仏教研究会も反共的な組織と疑われていた。

 

 金欠で入会金を払えなかった私に同情したのか「入会はやめた方がいい」とS子は忠告してくれた。「一緒に退会しよう」と言ったが、どうやら泥沼に嵌っていたようだ。親しくなると、実は同じ年齢だとはわかり、バス・トイレ付きの彼女のアパートに通うようになった。地味な人だったが、普段は眼鏡をかけていて、いかにも才女のイメージだった。大学では眼鏡をかけているが、逢うときは眼鏡をはずしていた。

 

 

 しばらくして連絡がとれなくなったので、アパートを尋ねると引き払ったあとで、自宅に帰って就職活動をしたのだろうか。あるいは大学院生の部長にバレて強制的に引っ越したのではないかとも思った。組織に引きとめるために「女」を使うと言うのは新興宗教(新興宗教ではないが)の常套手段だというが、彼女はそういう役割だったという恐ろしい想像をした。

 

 当時は学生運動の最後の残り火が燻っていたが、それだけは手を出さなかった。手を出さないというのではなく、よくわからなかった。文化大革命の「造反有理」の立て看板の意味がわからなかった。それでも独学で唯物史観の勉強をした。フリードリヒ・エンゲルスの著作は歴史を学ぶ上で避けて通れないと感じていた。ただ翻訳の日本語が和製漢語の羅列でなかなか難解だった。明治の知識人たちは自分たちで和製漢語を作っていたので、ニュアンスは理解していたのだろう。今でいえばカタカナ英語を使っているのに似ている。

 

 

 歴史研究会は日本共産党の下部組織だった民主青年同盟(民青)の牙城だったが、民青同盟所属でない3人を含む4人で東洋史部会を作った。研究会のBOXは使いづらかったので、学食で学習会を開いた。もっとも入会費・活動費のようなものは払ったことがない。日本共産党は中国共産党に背を向けていたので、抗日戦線の学習会は好奇の目で見られた。民青の女子大学院生が覗きにきたが、学習会の1人が「勉強するのは自由でしょ」と敵愾心のある言葉を投げかけた。

 

 

 新左翼系の学生運動は武装闘争を肯定していたので女性は少なかったが、民青同盟は当時すでに女性が増えていた。この人と学食で会って中国における唯物史観の受容について話したりしてしだいに仲良くなっていった。あとでほぼ同じ年齢だとわかったが、彼女も名古屋出身の秀才で裕福な学生生活をしていた。これがきっかけなのかわからないが、彼女は中国のマルクス主義の受容に興味をもち、民青同盟をやめた。どうやら日本共産党では勉強は自由ではなかったらしい。

 

 もっとも今のように情報が多い時代ではなかったから、中国共産党が発信した資料だったので都合よく改竄されていた可能性はあったが、共産党が内戦に勝利したのは農地解放だと知った。多少中国共産党に詳しくなったのはこの学習会のおかげだが、とくに中国現代史を研究しようとした思っていたわけではない。当時新左翼系のシンパで研究者になった人は中国現代史に向かった人もいたが、民俗学などに転向した人も少なくなかった。

 学生生活は極貧だった。風呂なし・共同トイレの1か月8,000~9,000円の下宿に10年以上住み続けた。日割で300円なので木賃宿(簡易宿泊所)だと思えばいいのだが、壁があって個室の分ましかもしれない。2つの奨学金合わせて3万円余りをもらっていたとはいえ、月に5万円余りで暮らしていた。残りは休日にアルバイトをして何とか生きていける生活だった。学食の80円のうどん(きつねうどんが120円)にずいぶん世話になった。銭湯は週に1回で、夏はさすがに体が痒くなるほどだった。それでも家からは授業料を送ってもらっていたので、孔子の言う「而立」には遠く及ばなかった。

 

 夏になると母から何度か電話があって、金を送るから正月には帰って来いと言われたが、試験が済んだら春に帰省すると返事した。共同のピンク電話だったが、私のほうからかけたことがなかった。生きているか心配だから電話くらい寄こせと言われたので、ワン切りしてかけ直してもらっていた。陰で応援してくれた恩も忘れて、やっとのことで入学した大学生活は貧しかったが自由で気楽だった。ホームシックになったのは母の声を聞いた夏休みくらいで、すぐにそれも忘れた。

 

 

 そのうち効率のいい塾や家庭教師のアルバイトについて、ほんの少しだけ生活水準は上がったが、不思議なことにエンゲル係数(家計に占める食費の割合)は変わらなかった。新しい服を着たいとか、もっといい処に住みたいと不思議に思わなかったが、ある程度の収入を得るようになってもそれがすっと後まで続いた。食事が充実し始めると、58㎏だった体重が年に5㎏ずつ増えていった。うどんが定食に代っただけだったが、田舎でずっと着ていたジーンズのウェストがきつくなってズボンを買ったくらいだった。20歳過ぎても酒や煙草に手を出さなかった。

 

 

 郷里の駅に着いたときに公衆電話から電話した。母が玄関の外で待っていてくれて親のありがたみを知った。「少し太ったかね。食えるんならいい」と言いつつ、それでも「お腹すいとらんかね」と訊かれた。「うん、少し」と言うと、「そうかね」と何だか嬉しそうに答えた。母の安心した顔を見て泣きそうになったので下を向いた。郷里のことはあまり好きではなかったが、母の言葉で帰省する喜びを知った。

 

 その何年か前にさだまさしの「案山子」が流行ったが、あまり好きではなかった。4月になって母が玄関に見送りに出た顔を電車の中で思い出して、なぜかこの歌を口ずさんだ。「元気でいるか♪街には慣れたか♪友達できたか♪ 寂しかないか♪お金はあるか♪今度いつ帰る♪」という歌詞しか覚えていなかったが、メロディは頭の中を巡っていた。自分が一本足で立つ案山子だと悟った。親というのはありがたい。