学生時代はとにかく社会勉強だと思って何にでも興味をもった。仏教研究会というクラブに顔を出すようになったが、なかなか入会金が払えずにいた。仏教に関心があったのではなく、勧誘してくれたS子という2年先輩と仲良くなったからだった。浄土真宗と結びついていたようで、入会金・活動費と称して学生から資金を吸い上げていた。当時統一教会を設立した文鮮明の国際勝共連合が日本にも進出していた。新左翼系の各セクトが弱体化したことによって勝共連合が学内でも幅を効かせつつあった。統一教会はキリスト教だったことから、仏教研究会も反共的な組織と疑われていた。

 

 金欠で入会金を払えなかった私に同情したのか「入会はやめた方がいい」とS子は忠告してくれた。「一緒に退会しよう」と言ったが、どうやら泥沼に嵌っていたようだ。親しくなると、実は同じ年齢だとはわかり、バス・トイレ付きの彼女のアパートに通うようになった。地味な人だったが、普段は眼鏡をかけていて、いかにも才女のイメージだった。大学では眼鏡をかけているが、逢うときは眼鏡をはずしていた。

 

 

 しばらくして連絡がとれなくなったので、アパートを尋ねると引き払ったあとで、自宅に帰って就職活動をしたのだろうか。あるいは大学院生の部長にバレて強制的に引っ越したのではないかとも思った。組織に引きとめるために「女」を使うと言うのは新興宗教(新興宗教ではないが)の常套手段だというが、彼女はそういう役割だったという恐ろしい想像をした。

 

 当時は学生運動の最後の残り火が燻っていたが、それだけは手を出さなかった。手を出さないというのではなく、よくわからなかった。文化大革命の「造反有理」の立て看板の意味がわからなかった。それでも独学で唯物史観の勉強をした。フリードリヒ・エンゲルスの著作は歴史を学ぶ上で避けて通れないと感じていた。ただ翻訳の日本語が和製漢語の羅列でなかなか難解だった。明治の知識人たちは自分たちで和製漢語を作っていたので、ニュアンスは理解していたのだろう。今でいえばカタカナ英語を使っているのに似ている。

 

 

 歴史研究会は日本共産党の下部組織だった民主青年同盟(民青)の牙城だったが、民青同盟所属でない3人を含む4人で東洋史部会を作った。研究会のBOXは使いづらかったので、学食で学習会を開いた。もっとも入会費・活動費のようなものは払ったことがない。日本共産党は中国共産党に背を向けていたので、抗日戦線の学習会は好奇の目で見られた。民青の女子大学院生が覗きにきたが、学習会の1人が「勉強するのは自由でしょ」と敵愾心のある言葉を投げかけた。

 

 

 新左翼系の学生運動は武装闘争を肯定していたので女性は少なかったが、民青同盟は当時すでに女性が増えていた。この人と学食で会って中国における唯物史観の受容について話したりしてしだいに仲良くなっていった。あとでほぼ同じ年齢だとわかったが、彼女も名古屋出身の秀才で裕福な学生生活をしていた。これがきっかけなのかわからないが、彼女は中国のマルクス主義の受容に興味をもち、民青同盟をやめた。どうやら日本共産党では勉強は自由ではなかったらしい。

 

 もっとも今のように情報が多い時代ではなかったから、中国共産党が発信した資料だったので都合よく改竄されていた可能性はあったが、共産党が内戦に勝利したのは農地解放だと知った。多少中国共産党に詳しくなったのはこの学習会のおかげだが、とくに中国現代史を研究しようとした思っていたわけではない。当時新左翼系のシンパで研究者になった人は中国現代史に向かった人もいたが、民俗学などに転向した人も少なくなかった。

 学生生活は極貧だった。風呂なし・共同トイレの1か月8,000~9,000円の下宿に10年以上住み続けた。日割で300円なので木賃宿(簡易宿泊所)だと思えばいいのだが、壁があって個室の分ましかもしれない。2つの奨学金合わせて3万円余りをもらっていたとはいえ、月に5万円余りで暮らしていた。残りは休日にアルバイトをして何とか生きていける生活だった。学食の80円のうどん(きつねうどんが120円)にずいぶん世話になった。銭湯は週に1回で、夏はさすがに体が痒くなるほどだった。それでも家からは授業料を送ってもらっていたので、孔子の言う「而立」には遠く及ばなかった。

 

 夏になると母から何度か電話があって、金を送るから正月には帰って来いと言われたが、試験が済んだら春に帰省すると返事した。共同のピンク電話だったが、私のほうからかけたことがなかった。生きているか心配だから電話くらい寄こせと言われたので、ワン切りしてかけ直してもらっていた。陰で応援してくれた恩も忘れて、やっとのことで入学した大学生活は貧しかったが自由で気楽だった。ホームシックになったのは母の声を聞いた夏休みくらいで、すぐにそれも忘れた。

 

 

 そのうち効率のいい塾や家庭教師のアルバイトについて、ほんの少しだけ生活水準は上がったが、不思議なことにエンゲル係数(家計に占める食費の割合)は変わらなかった。新しい服を着たいとか、もっといい処に住みたいと不思議に思わなかったが、ある程度の収入を得るようになってもそれがすっと後まで続いた。食事が充実し始めると、58㎏だった体重が年に5㎏ずつ増えていった。うどんが定食に代っただけだったが、田舎でずっと着ていたジーンズのウェストがきつくなってズボンを買ったくらいだった。20歳過ぎても酒や煙草に手を出さなかった。

 

 

 郷里の駅に着いたときに公衆電話から電話した。母が玄関の外で待っていてくれて親のありがたみを知った。「少し太ったかね。食えるんならいい」と言いつつ、それでも「お腹すいとらんかね」と訊かれた。「うん、少し」と言うと、「そうかね」と何だか嬉しそうに答えた。母の安心した顔を見て泣きそうになったので下を向いた。郷里のことはあまり好きではなかったが、母の言葉で帰省する喜びを知った。

 

 その何年か前にさだまさしの「案山子」が流行ったが、あまり好きではなかった。4月になって母が玄関に見送りに出た顔を電車の中で思い出して、なぜかこの歌を口ずさんだ。「元気でいるか♪街には慣れたか♪友達できたか♪ 寂しかないか♪お金はあるか♪今度いつ帰る♪」という歌詞しか覚えていなかったが、メロディは頭の中を巡っていた。自分が一本足で立つ案山子だと悟った。親というのはありがたい。

 

 

 

 

 

 

 偉大な哲学者に自分の人生を準えるのは不遜だが、孔子(前551-前479)くらいになるともう実在の人物とは思えなくなってしまう。何やら世の中の基準と考えるとよいかもしれない。孔子は「論語」の中で「吾十有五志于学」と言っているので、学問を志したのはミドルティーンだったようだ。私の志学は実質的にはハイティーンだったといえる。2600年前の孔子より遅いことは確かのようだ。

 

 

 大学に入学してまず私は痛感したのは受験などで得たクイズのような知識は役に立たないという現実だった。受験は往々にしてクイズのような条件反射の側面をもつ。知識はさらに大きな背景をもっていて、それを知るには本を読むための教養を必要としていた。私が志していた歴史学には数学や科学の学力は必要なかったが、国語や英語などの外国語の能力が試された。

 

 国語は古典のおかげでそれなりに(と言っても力不足だったが)何とかなったが、英語は高校生のとき全受験生の平均(偏差値50)にも及んでいなかった。予備校の自習室での大半の時間が英語力を付けることに費やされたが、2年かけてようやく受験に抗するだけのまともな学力に到達した。つまり志望大学に運よく入学できるくらいでは学問を職業として志すには不十分だったことに気づくのである。専門書を読むための基礎となる語学力はなかなか厳しかったが、受験で得たクイズのような知識に背景を与える教養だけは身に付けた。

 

 大学入学後に息抜きのつもりで麻雀に興じたことがあり、似たような境遇の学生に遭遇したことがある。経済学部のF君は当時関西ではよく知られた進学校の出身で、例によって入学後は単位を取得するだけで汲々としていた。あるとき卓を囲んでいるときマクロ経済のまともな会話になったが、F君が「GNPって何?」と真顔で聞いてきた。当時は海外生産はほとんどなかったのでGDP(General Domestic Production )でなくても国民(National)総生産で国の経済力は語られていた。

 

 

 卓を囲んでいた者はさすがに唖然とした。経済学部は麻雀学部とも揶揄されて、入学したら大手企業に就職する者が多かったが、一応3年生から経済学のゼミに出なければならないし、企業への就職の支障になるかもしれないと感じた。その時周りは彼のことを揄っていたが、私は内心他人事ではないと感じていた。自分も似たり寄ったりだと思った。彼は1年後に法学部に転学部するが、その時のことが契機だったかもしれない。法律学はたしかに考証学(文献学)的な性格がある。

 

 本当の意味で私が「学に志す」出発点に立ったのはもう20歳を過ぎたこの頃だったかもしれない。孔子は「論語」で「三十而立」としているが、私が而立=経済的に自立するのもさらに10年かかった。そのあたりは続編で。

 

 もうすぐ「立春」だというのにまだ寒い。2週間前くらい前に大学入学共通テストを実施していたが、寒中に入試をする神経がわからない。1年で最も体調管理が大変な時期であり、雪でも降ろうものなら試験会場に行くだけでも支障が出るのに。もう半世紀近くも前になるが、私は予備校で立春を迎えていた。

 

 先日来当時からの友人に予備校の建物の構造をメールで思い出させてもらったが、よく覚えているものだと感心した。6階建てでエレベーターがなく、6階の自習室まで登っていたことを思い出した。思い出したと言っても、体感で覚えていたわけではなく、観念的にそうだったのかと思っただけだ。その友人の強記ぶりは尋常ではない。

 

 

 当時のことで覚えているのはM子ちゃんのことしかない。私は人と親しくするのが得意でなかったのに、なぜかM子には花に近づく蜂のように吸い寄せられた。今で言うと橋本環奈のように小柄だが目がパッチリした美少女だった。女子校出身でいかにも深窓の令嬢という感じで、クラスでもすぐに目を引いた。18~19歳の男子で気にならないはずがない。

 

 人と親しくなるのが苦手な私だったが、女子だけは別だった。高校時代も女子と交際していた。当時はまだスマートで「やさ男」だった。たまたま4回目の夏過ぎの校内模試で同点で同順位になった。同じクラスの授業で席が偶然前後になった。振り返ればM子がいた。もともと引っ込み思案の私だったが、勇気を出して声をかけた。同順位になった校内模試のことは格好の話題だった。私のほうはもちろん知っていたが、彼女も私のことを認識していて妙な自信になったのを覚えている。

 

 それから休み時間になると建物から出た庭のようなところで短いおしゃべりを楽しんだ。わずか10分くらいのおしゃべりだったが、受験浪人生にとっては憩いの時間になった。M子も同じだったと思う。どちらかが誘ったわけではないが、2人とも授業が終わると暑いのに外の空気を吸いに庭に出た。それから前後で座るようになって、クラスの生徒の視線が私たちに集中していたのがわかった。

 

 当時予備校は月曜日が休みで、予備校のある市内の動物園でデートした。休日でも自習室は開いていたので、母には自習室で勉強すると言って家を出た。通学定期だったから電車賃はかからない。昼ごはんのための小づかいをもらっていたが、M子は弁当を作っていた。売店でパンでも買えばいいかと思っていた。ベンチに座っておしゃべりしながら「おむすび」を一緒に食べた。

 

 

 M子の家は当時まだ国鉄だった駅から遠くなかったので、一緒に駅まで歩くことにした。動物園から国鉄の駅まで数キロ離れていたが、まだ残暑の中を汗を掻きながら歩いた。そのとき勇気を出して手を繋いだ。駅に着いて手についた汗を拭かずにそこで分かれた。そこから1時間ほど電車に乗って帰宅したが、小さな手の感覚が鮮明に残っていた。浪人生なのに絵に描いたような青春だった。

 

 ところが、秋から2人とも成績が伸び悩んだ。2人とも息抜きのつもりだったが、18~19歳の若い男女なのでそんな都合よくはいかなかった。翌年の2浪目に予備校の数学講師のY先生がある生徒に向かって「あんた、そんなことやから3浪もするんよ」と言った言葉は私に言っているような気がした。今だとパワハラで訴えられそうな言葉だが、Y先生にとっては馴染み深い生徒への叱咤激励だった。

 

 予備校は成績別にクラス編成をしていたが、彼女だけが下のクラスになってしまった。それから小さな庭でおしゃべりする機会が減っていった。私は第1志望の大学入試に失敗して第2希望の大学に進学しなかったが、彼女は第1志望ではない地元の大学に入学した。周囲に見栄を張ったためにどうしても第1志望の大学に入学したかった。

 

 それから半世紀くらい経って、2浪目に同じクラスになった冒頭の友人から予備校のことを聞いて、思い出したのはM子のことだった。そのあと彼女の夢をみた。遊園地でデートするときに入場券をなぜか当時はなかった自動販売機でチケットの間違ったところを押すシーンなのだが、彼女が何か言っている声が聞こえない。帰り道に黙って腕を組んで駅まで歩いて別れるときにキスをする記憶だった。自動販売機で違ったところを押したのは間違った人生の選択をしたことを後悔していたのかなどと夢分析をした。

 

 

 日本語の基本はやはり大和言葉≒和語にあった。およそ江戸時代まで西洋語を使う必要がなかったからだ。幕末くらいから西洋語を使う必要ができると、日本人は和製漢語を発明していった。一部のエリートは漢文を使ってきたが、かな交じり文も併用してきた。やがて和製漢語を超えてカタカナでニュアンスを伝えるようになってきた。外来語はカタカナだったのだが、和製漢語に訳された事象までカタカナ表記するようになってきた。

 例えば、「文化」という語はドイツ語のKukturや英語のcultureを訳すすための和製漢語として発明されたが、偶然にも19世紀初頭の元号(1804~18)として使われていた。元号は中国の古典に遡るが「文徳による教化」という意味合いだ。偶然この時代の江戸で文化が花開いた。cultureなどの西洋語は「農耕」を語源として発展したが、元号の文化は違ったニュアンスで使われた。「文化」という和製漢語には自然発生的に形成された生活様式の総体と人為的な営みという二項対立が付き纏うのはこのためだ。

 おそらく和製漢語として「文化」を使う時は「文徳による教化」という意味を日本人は意識してきたと思われるが、サブカルチャーのように教育的な意味から外れる用法も出てきた。高度経済成長期には文化住宅、文化鍋など物質文明の進化を意味する言葉にも使われた。カルチャーのようにカタカナを使うことで教育的意味から解放されたのかもしれない。意図的に外来語のようにカタカナ表記すると漢字表記の堅苦しさがなくなるのだろう。

 大和言葉≒和語には動詞の連用形が少なくない。「あそび」「うごき」「かわり」「おもい」「はしり」「つかい」「あたり」など思いつくままに列挙してみたが、無限に出てきそうな気がする。形容詞は元々和語のようだ。「さ」や「み」の接尾語を付けてニュアンスを伝える。「あおみ(青み)」というといろんな青を想像する。「強み」「弱み」と言うと「強さ」「弱さ」よりあいまいな感じを与える。

 

 

 

 動詞などに「物」をつける和語もある。「食べ物」「着物」「買い物」などが思いつく。「食べ物」を食品、フード、「着物」を衣服、ドレス、「買い物」を購入、ショッピングなどと言うと別の意味が付け加わるのは面白い。「てがみ」はあえて漢語やカタカナにすると書簡、レター、「やど」は旅館、ホテルなどとしなくてはならなくなる。

 「手紙」は元々手元にある紙という意味で、書簡・レターの意味で使うようになったのは江戸時代からだそうだ。襖の裏張りから古文書が出てくる(下の写真)のはまだ紙を再利用していた時代だからだ。中国語の「手紙」はトイレットペーパーを指し、手元にある紙の意味を留めている。坂本龍馬の言葉を印刷したトイレットペーパー(下の写真)は面白い。技術的には手間はかかって高そうだが。

 

 

 

 

 和製漢語という概念がある。日本で日本人によって造られた漢語のことである。中国語(多くは古典)の造語法に基づきながら、日本語特有の要素を交えた造語。とくに幕末以降、西欧に由来する概念を示すために翻訳用語が多い。これらを「新漢語」と呼んだりする。「科学」や「郵便」などのように新しい漢字を組合わせて作ったものと、「観念」や「革命」などのように古くからある漢語に新しい意味を付与して転用したものがある。

 和製漢語は中国に逆輸出されたものも少なくない。中国の近代化の過程で、特に日清戦争・日露戦争期に、中国人留学生によって日本語の書物が多く翻訳されたことが大きいともされる。中国語になった和製漢語の例として「宗教」「哲学」「文化」「文明」「思想」「法律」「経済」「資本」「理性」「意識」「主観」「客観」などのような一般的な社会科学の用語から「右翼」「左翼」「階級」「共産主義」「唯物論」「幹部」などのような政治的な文脈で使われるもの、「物理」「分子」「質量」「個体」「時間」「空間」などのような自然科学の用語、「文学」「美術」などのような人文科学の用語、「失恋」「接吻」などの文学に使われたと思われるものもある。

 和製漢語を使い始めた中国人は19世紀末から日本で活動した梁啓超(1873-1929、写真左)だといわれる。「株式会社」という和製漢語は中国では広まらず、華製新漢語である「股份有限公司」が広まった。「株式」は華製新漢語では「股票」という。梁啓超はeconomyを「資生」と翻訳したが、和製漢語「経済」のほうが中国で広まった。魯迅(1881-1936、写真右)は「万年筆」や「写真」を多用した。毛沢東が延安の整風運動の演説で「幹部」などを多用したという。

 

 19世紀半ばまでの日本語には「社会」という言葉はなく、「世間」や「世の中」などの言葉しかなかった。「社会」とは中国の古語で農耕の守護神を祀る会合を意味していた。1874年に西周(1829-97)が明六社の「明六雑誌」で英語のsocietyの日本語訳に当てた。中江兆民(1847-1901)はルソーの「社会契約論」を「民約論」と訳した。「自由」は古典中国語では我儘放蕩(わがままほうとう)の意味であったが、福沢諭吉(1835-1901)は「自由とは不自由の中にある」と言って警鐘を鳴らした。下掲は西周、中江兆民、幕末フランスの福沢諭吉。

 


 

 「共和」は西周時代に王が一時的に追放された期間、諸侯の合議制による政治運営が行われた政治体制のことを指して使われたが、民主主義の時代には違った意味で使われた。1569年にポーランド王国との間に合同が成立し、ポーランド・リトアニア共和国が生まれたが、ポーランド王兼リトアニア大公は貴族による自由選挙で選ばれた。西周時代の共和政に近いが、選挙をしているのでなおややこしい。選挙王政はヨーロッパには少なくないが、王制はたいてい世襲だからである。

 

 

 1931~45年の国共内戦期から国共合作期にかけては変動期だったので、党大会が開かれなかったのはわかるが、1945~56年の安定期は11年も党大会が開かれなかったのかわからない。たしかに整風運動以後は5大書記の時代で、1950年9月に任弼時の死去で陳雲が中央書記処書記に加わった以外はほぼ毛沢東を中心とした権力基盤が安定していた。毛沢東にとっていらぬ波風を立てず権力を維持したかったかもしれない。

 1956年9月の第8期共産党大会で中央書記処書記は中央政治局常任委員と改称し、一中全会で毛沢東・劉少奇・周恩来・朱徳・陳雲に加えて鄧小平(1904-97)が常任委員に選ばれていた。1958年5月の五中全会で新たに林彪(1907-71)が常任委員に選ばれた。林彪は東北民主連軍総司令だったが、病気療養のため朝鮮戦争の中国人民志願軍司令官を辞退した。朱徳・彭徳懐に次ぐ軍事指導者になっていたが、軍事畑では人脈が少なく毛沢東に接近することになった。右は10大元帥に列した1955年頃の林彪。

 


 

 毛沢東は基本的に中国共産党を遠隔操作していたソ連が嫌いだった。上海から瑞金にやってきた共産党中央はモスクワ留学組のスターリン派が毛沢東らが築いた農村の根拠地を支配したが、国民党との内戦は戦術的には上手くいかなかった。スターリン派は瑞金の土地革命を批判したが、延安から華北に広がる解放区の拡大は土地改革によって成し遂げられた。毛沢東の成功体験は1958年の第2次5カ年計画の大躍進が成功するという幻想を与えた。

 ソ連は1953年にスターリンが死去し、フルシチョフ書記長が1957年2月にスターリン批判をおこない、権力を掌握した。毛沢東は10月にフルシチョフの平和共存路線を批判した。直接の動機は11月にフルシチョフが「ソ連は工業と農業において15年以内にアメリカを追い越せる」と宣言したことだった。これに刺激されて、1958年5月に第2次五ヵ年計画において「当時世界第2位の経済大国であったイギリスを農工業で15年で追い越し、アメリカに追いつく」と非現実的な目標を掲げた。いわゆる大躍進政策である。-

 1957年に共産党が発した反右派闘争で党への批判はできなくなり、党内部でも毛沢東主席への個人崇拝が展開されつつあった。農業生産協同組合である合作社と産業・教育・軍事の各組織、地方行政機関を一体化して人民公社を作ろうとしていた。しかし、拙速な施策による準備不足と飢饉によって失敗し、1962年までに数千万人の餓死者を出したといわれる。下掲は共産党が人民公社を宣伝するための写真である。若い人民が多く写っていることがわかる。まるで学食のようでのちの紅衛兵を思わせる。

 

 

 

 中華人民共和国は1954年に憲法を制定して、全国人民代表大会(全人代)を最高意志決定機関とした。中華人民共和国の成立前は共産党大会が政府の意思決定機関であった。もっとも国共内戦期は党大会は開催されず国共合作期の1945年6月に11年ぶりに開催された。中華人民共和国成立の1949年以降の全国政治協商会議は残ったが、予算や政策の諮問機関となった。代表は地域別(一部軍などの職域から)に選ばれるが、共産党が指導政党と規定され、共産党の中央委員会に権力は委任された。

 全人代の代表は当時約1,200人だったので中南海最大の建物の懐仁堂では収容できず、1954年9月に下覧上段の航空写真のように中庭に屋根を付けて開催したらしい。下段の記念写真の数倍はいたはずである。全人代の常務委員長には劉少奇が選ばれた。劉少奇は56歳だったが、我々が知っている白髪の劉少奇の姿が見られる。冒頭の写真は1967年文化大革命の頃の懐仁堂の入口。

 

 

 中南海の北東にある紫光閣は迎賓館などに使われた。下覧右の1954年とされる写真には、1950年6月に中央書記処書記に選ばれた4人がいる。毛沢東は党主席で軍事委員会主席も兼ねて1954年には国家主席となった。その左側の朱徳は人民解放軍総司令が廃止され、国防委員長となり、国家副主席となっていた。右端の周恩来は国務総理となり、政治協商会議の全国委員会主席を兼ねた。周恩来の陰に隠れて1人いるが、おそらく全人代の常務委員長となった劉少奇だと思われる。劉少奇は共産党のナンバー2になっていたが、1960年代の文化大革命で失脚する。この写真が公表された意図のようなものを感じざるをえない。

 

 

 毛沢東と周恩来との間にいる陳雲(1905-95)は1950年9月に死去した任弼時に代わって中央書記処書記に選ばれ、国務院副総理として旧満州での実績を買われて第1次5カ年計画の責任者となった。陳雲はこの中では最も若く唯一20世紀生まれである。もう1人経済・財政政策の責任者として華北から中央に国務院副総理として戻ったのが鄧小平(1904-1997)だが、この写真の中にはいない。鄧小平は1970年代後半から改革開放路線を推進し、陳雲の計画経済の考え方と対峙することになる。下掲左の1952年の写真で、鄧小平は陳雲と談笑している。右は1955年に劉少奇らとともに東北地区を視察した時の写真。覗き込んでいるのが楊尚昆(1907-98)。

 

 

 中国の5カ年計画は1953年からソ連の計画経済をモデルにして実施されたが、近代的な重工業の振興は旧満州に日本が残した設備がソ連に接収されてたあと中国に委譲され、東北地区の設備の修復から始まった。東北地区の重工業建設の責任者が陳雲とともに東北軍の政治委員だった高崗と李富春(1900-75)である。高崗は劉少奇らとの権力闘争に敗れて1954年に自殺し、李富春が5ヵ年計画の後継者となった。下段は鞍山製鉄所の修復と長春の自動車工場を視察する毛沢東。

 

 

 

 

 ネコという呼び方は鳴き声が起源であるという説がある。現代ではネコの鳴き声は

「にゃーにゃー」と表現するが、江戸時代に生まれたようだ。平安時代は「ねんねん」と発音し、鎌倉時代以降は「ねうねう」と発音されるようだ。この「ねうねう」の「ね」に小さい者を意味する「こ」を付けて「ねこ」と呼んだという説だ。現代中国語ではネコは「mao」だが、鳴き声はmeowと表記する。n音とm音が転化したのかもしれない。

 夜行性なので「寝る子」、「寝るのを好む」から「ねこむ」→「ねこま」→「ねこ」となったという説が有力らしいが、私は鳴き声説を採りたい。テレビアニメで人気だった「トムとジェリー」のようにネズミを好むからという説もある。不思議なのはネコが十二支にいない理由だ。ネズミに負けたとよく言われるのだが、中国では虎がネコより先にいたからという。家猫は2000年前にヨーロッパやエジプトで広がり、唐代に中国に伝わったというのである。ちなみにシャム猫で知られるタイには十二支にネコが入っているという。

 

 ちなみに犬の鳴き声は、平安時代が「ひよ」、室町時代が「びよ」「びょう」で、江戸時代から「わん」となったようだ。狂言では犬の鳴き声を「びょうびょう」と表現する。たしかに英語の鳴き声の表記はBow-wowなので、狂言の鳴き声に近い。むしろ江戸時代に「わんわん」となった理由がわからない。犬の語源は飼い犬になったため家に助詞の「ぬ」がついたという説があるが、私は「唸る」の古語の「いなる」の語幹という説に賛同する。犬の漢字は意外にも象形文字で、左が体、右が足跡だという。

 

 小字名に猫がつく地名で、猫の額ほど狭い土地を水田=迫田(谷地田)にしたから猫迫というところがあるようだ。谷の奥にため池を作って迫田に灌漑したのだろう。小字地名なのでしだいに使わなくなるだろうが、この地名は昭和の前半生まれの人、つまり半世紀くらいまではイメージできたと思う。

 江戸時代にはこうした狭い土地まで開拓したので、平和な時代に人口を維持してくれる食糧を提供したといわれる。「猫の額」という空間表現は江戸時代にはすでにあったようだ。猫迫という自虐的な地名が流布する素地はあった。英語でも次のような表現があり、「猫を振り回す」ので少し違うが、空間的な狭小さをネコで表現している。ネコの「コ」はやはり小さいものの表現だ。

 It’s a tiny apartment. There’s no room to swing a cat.


 

 漢字は中国からの伝来であるから、言葉が入ってきた時代によって読み方が違うのが厄介である。中国人が日本語に苦労するのはこのためだ。呉音は飛鳥時代以前、漢音は律令制の奈良時代、唐音は鎌倉時代といわれる。平安時代が抜けているのは894年に遣唐使を廃止したからだろう。

 

 

 仏教用語などの呉音は多くは建康(現在の南京)から百済経由で伝わったとされ、百済音といった別名がある。修行の「ぎょう」(漢音は「こう」)、解脱の「げ」(漢音だと「かい」)、礼拝の「らい」(漢音だと「れい」)、流転の「る」(漢音だと「りゅう」)、建立を「こんりゅう」と詠む(漢音だと「けん」と「りつ」)などがわかりやすい。ほぼ漢音で読む場合が多いのだが、中には客室の「きゃく」(漢音だと「かく」)のような呉音をよく使う例もある。

 日本語ではアメリカのことを「米国」と表記したりするが、現代中国語では「美国(Meiguo)」だ。毛沢東に惨殺された劉少奇の妻の王光美(1921年生まれ)は「美国」を意識して名づけられた。彼女はアメリカ留学が決まっていたが、延安に赴いて23歳も年上の劉少奇と結婚した。現代中国語が作られようとしていた時はアメリカは「美国」と表記された。

 ちなみに現代中国語の最初は1898年にジャーナリスト梁啓超(1873-1921)が横浜で開校した大同中華学校らしい。1918年に魯迅(1881-1936)の「狂人日記」が白話文(口語文)で発表されていた。左は辛亥革命の前年の1910年で日本にいたとき。右は清末の1890年代の20歳前後でまだ辮髪をしている。下段は1925年に北京にいた魯迅。

 

 

 Americaのme音節にアクセントがあるからだが、日本の「米国」は「亜米利加」と漢字表記したことに始まる。このm音は呉音の「まい」なのだろう。漢音だとしたら「べい」なので、「米」は使いそうにない。コメは生産しないのに「米国」とはこれ如何になのだが、いやカリフォルニア米があると屁理屈を言った時は「まい」なのだ。

 仏教も知らないのに仏蘭西、孤立しているから独逸は日本語の漢字表記だが、中国語ではフランスは「法蘭西」を略して法国、ドイツは「德意志」を略して徳国となる。中国語のほうが意味を含んでいる。たしかにフランスは近代法の基礎を築き、ドイツは美徳を示す意志がはっきりしている。

 呉音や漢音に比べれば、唐音は断片的である。日中交流が再開されたときにはすでに宋代だが、中国を唐土と呼んだ名残らしい。そのため唐音ではなく宋音とも呼ばれる。中近世に入ってきた新仏教の仏典読誦に使われたことが多いようである。行脚や行灯を「あんぎゃ」「あんどん」、胡散臭いの「うさん」、和尚の「お」、南京の「きん」、炬燵(こたつ)、石灰(しっくい)、普請(ふしん)、蒲団(ふとん)、西瓜(すいか)、饅頭(まんじゅう)、杏仁豆腐の「あんにん」などである。

 唐音は中世唐音と近世唐音に分けられるが、中世後期の室町時代は明国になっていた。明を「みん」と詠むのは唐音だからだろう。呉音だと「みょう」、漢音だと「めい」と読む。聖武天皇の皇后光明子(701-60)は奈良時代の人なのだが、「こうみょう」と読むのは生まれたのがぎりぎり飛鳥時代だからだろうか。