学生時代はとにかく社会勉強だと思って何にでも興味をもった。仏教研究会というクラブに顔を出すようになったが、なかなか入会金が払えずにいた。仏教に関心があったのではなく、勧誘してくれたS子という2年先輩と仲良くなったからだった。浄土真宗と結びついていたようで、入会金・活動費と称して学生から資金を吸い上げていた。当時統一教会を設立した文鮮明の国際勝共連合が日本にも進出していた。新左翼系の各セクトが弱体化したことによって勝共連合が学内でも幅を効かせつつあった。統一教会はキリスト教だったことから、仏教研究会も反共的な組織と疑われていた。
金欠で入会金を払えなかった私に同情したのか「入会はやめた方がいい」とS子は忠告してくれた。「一緒に退会しよう」と言ったが、どうやら泥沼に嵌っていたようだ。親しくなると、実は同じ年齢だとはわかり、バス・トイレ付きの彼女のアパートに通うようになった。地味な人だったが、普段は眼鏡をかけていて、いかにも才女のイメージだった。大学では眼鏡をかけているが、逢うときは眼鏡をはずしていた。
しばらくして連絡がとれなくなったので、アパートを尋ねると引き払ったあとで、自宅に帰って就職活動をしたのだろうか。あるいは大学院生の部長にバレて強制的に引っ越したのではないかとも思った。組織に引きとめるために「女」を使うと言うのは新興宗教(新興宗教ではないが)の常套手段だというが、彼女はそういう役割だったという恐ろしい想像をした。
当時は学生運動の最後の残り火が燻っていたが、それだけは手を出さなかった。手を出さないというのではなく、よくわからなかった。文化大革命の「造反有理」の立て看板の意味がわからなかった。それでも独学で唯物史観の勉強をした。フリードリヒ・エンゲルスの著作は歴史を学ぶ上で避けて通れないと感じていた。ただ翻訳の日本語が和製漢語の羅列でなかなか難解だった。明治の知識人たちは自分たちで和製漢語を作っていたので、ニュアンスは理解していたのだろう。今でいえばカタカナ英語を使っているのに似ている。
歴史研究会は日本共産党の下部組織だった民主青年同盟(民青)の牙城だったが、民青同盟所属でない3人を含む4人で東洋史部会を作った。研究会のBOXは使いづらかったので、学食で学習会を開いた。もっとも入会費・活動費のようなものは払ったことがない。日本共産党は中国共産党に背を向けていたので、抗日戦線の学習会は好奇の目で見られた。民青の女子大学院生が覗きにきたが、学習会の1人が「勉強するのは自由でしょ」と敵愾心のある言葉を投げかけた。
新左翼系の学生運動は武装闘争を肯定していたので女性は少なかったが、民青同盟は当時すでに女性が増えていた。この人と学食で会って中国における唯物史観の受容について話したりしてしだいに仲良くなっていった。あとでほぼ同じ年齢だとわかったが、彼女も名古屋出身の秀才で裕福な学生生活をしていた。これがきっかけなのかわからないが、彼女は中国のマルクス主義の受容に興味をもち、民青同盟をやめた。どうやら日本共産党では勉強は自由ではなかったらしい。
もっとも今のように情報が多い時代ではなかったから、中国共産党が発信した資料だったので都合よく改竄されていた可能性はあったが、共産党が内戦に勝利したのは農地解放だと知った。多少中国共産党に詳しくなったのはこの学習会のおかげだが、とくに中国現代史を研究しようとした思っていたわけではない。当時新左翼系のシンパで研究者になった人は中国現代史に向かった人もいたが、民俗学などに転向した人も少なくなかった。










































