阪神淡路大震災から16年。
今日は三宮東遊園地の「1.17のつどい」に行きました。
たくさんの人たちが、亡くなられた多くの方々のご冥福を祈り、献花し、
竹灯篭のロウソクに灯をともしていました。
私も同じように祈り、花をささげ、灯をともしました。
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昨日PIGCは朝の9時から、そのメモリアルとして豚汁200食を配りました。
毎年のことですが、あの非常時を思い出されてか皆さん言葉少なに召し上がり
「ありがとう、美味しかった」と言ってくださいます。
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16年前の当時の私は大学2年生。
震災の日は、確か大学の後期試験の一日目だったのでよく覚えています。
日頃部活に明け暮れていて、それ以外の時間は遊び呆けて過ごしていたので
テストはいつも一夜漬けで臨みます。
翌朝の大地震など想像だにしていないテスト前夜は、実家の2階にある自分の
部屋で3時すぎまで机にむかっていました。
適当に切り上げて床に入ったのですが、深い眠りに入ったころ、聞いたことの
ない爆音が耳に飛びこんで来ました。
近くに爆弾が落とされたか、飛行機が墜落したか?
嘘みたいな話ですが、そう思いました。
続いて、あたかも自分が飛行場の滑走路で寝ていて、その真上を離陸直後
のジャンボジェットが通り過ぎていくような轟音が響きます。
目を見開くもまだ日が出ておらず、あたりは暗闇です。
轟音とともに、私の身体は宙に突き上げられ、寝ているベッドに叩きつけられました。
今度はついに地球の終わりが来たと大真面目に思いました。
瞬間的に何かを覚悟したことも覚えています。
その後、巨人の大きな手のひらの上で家がシェイクされているような揺れが
長いあいだ続きました。
突然でいてあまりに非現実的だったので、今起こっていることが地震だと分かる
までに随分時間がかかりました。
夢か現実か、自分が正気かそうでないのかさえ判別できません。
闇のなか焦点を合わそうとしても、激しい揺れのせいで視界が定まらない。
思ったように身体を動かすことができず、ベッドの上でに仰向けのまま状況把握
に努めましたが、当然ながら暗い部屋の中に一人では何一つ確かなことを知る
ことが出来ませんでした。
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揺れが治まってしばらく経ってから1階に降りてみると、居間には大人4人でも
動かすことが難しかった棚があらぬ方向に移動していて、台所の床には電子
レンジが転がっているほか、あちらこちらに皿や本・書類やペン・爪切りや写真立て
などが飛散していました。
そして日が昇ったころにやっと、これらは広範囲を襲った大地震の仕業だという
ことが分かりました。自分に降りかかってきたのは地震であり、その地震は当然
近所だけで起きたことでなく、その影響は広く及んだということを明確に知ることが
できました。
それから間をおいて、大学へ行くための鉄道・道路網がすべて寸断されたこと、
そもそも大学が半壊滅状態になっていることを知るに至りました。
さらに時間が経って、私の住んでいた神戸市北区は比較的被害が少なく
震源に近い沿岸部の須磨区~東灘区・芦屋市の揺れは私が経験したもの以上に
ひどかったこと、PIGCがまだ存在してなかった頃の人工埋立地ポートアイランドは
道路上に泥水が覆う液状化現象を起こし、さらに本土に渡る橋は決壊して孤島に
なっていることを報道で知りました。
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今日はここに、三宮東遊園地にある希望の灯りの碑文をそのまま記したいと思います。
震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
1.17 希望の灯り
この碑文には阪神大震災で奪われたすべてのいのちと
いかされた私たちの思いが凝縮されています。
あの震災から15年、街の復興は進みましたが・・・
愛する家族を、友人を、仲間を奪われた方々のこころの傷はまだ癒えてはいません・・・
マグニチュード7.3を記録したあの大震災の時、
私たちはかけがえのない「いのち」を失うと同時に
国籍や宗教、肩書などの違いを越えて、家族や隣人、地域で
お互いに心を結び助け合いました。
電気もガスも水道もない中、手をたずさえ支えあったあの「こころ」は
まさに暗闇を照らす小さな灯火だったのです。
被災地の公園や街角、学校や会社には、亡くなられた方々の「生きた証」として
多くの「慰霊碑」「追悼碑」「モニュメント」がつくられています。
これらは失われた多くの命を、「個人の死」・「一人の死」としてではなく
「みんなの死」として受け止めた被災した方々のごく自然の営みでした。
ここに点されている灯りは2000年1月17日午前5時46分
被災10市10町と全国47都道府県から届けていただいた種火を一つにして、
「生きている証」として点しました。
2010年1月17日記す

