DAVID BOWIE / THE RISE AND FALL OF ZIGGY STARDUS | 極私的洋楽生活

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豚袋でございます。



はや1月も終わりを迎えましたね。何となく早い気がします。このところ仕事もさして忙しくはないのですが、人の解雇通知という内容の厳しい事を今時期やっているので、精神的には非常にハードな日々を送っております。

そんな折、実は2月より異動がきまりました。営業から外れ戦略事業部という部署に異動です。ネットビジネスをやるようなのですが、内容もよくわかっておりません。何故ワタクシがやるのかその意味もよくわからない。営業が長かったのでこれからまた新しい事を覚えていかねばならないのは、正直ちょっとつらいですが、まずはやってみなくちゃわからんので、とりあえず頑張ります。てなわけで、またしばらくは引継ぎと新たなビジネスの勉強でちょっと忙しくなりそうです。



さて今回は何をとりあげようかと思いましたが、これだけのビッグネームなのにまだ記事にしていないのに気が付き、この人を取り上げることにしました。デヴィッド・ボウイ。いわずと知れたグラム・ロックの大御所。その狭量な分野に安住することなく、時代をおおきく牽引していったカリスマミュージシャン。ボウイは活動歴も長いので、その音楽性は何度かの変遷を遂げております。グラム・ロックの雄としてシーンを牽引したアンドロジナス・ヒーローの時代。自らのオリジンをフィリー・ソウルに求めたアメリカ時代。ドイツ世界への傾倒と、バッシングや薬物からの遮断を目的に移住し、引きこもったベルリン時代。そして「演じる」カルト・スターから生身の自分を晒したダンス&ポップ時代。そしてロック・スターであることからすら降りようとしたティン・マシーン時代をへて、現在も活動中のわけですが、そのどの時代にもエポックメイキングなアルバムが存在しております。今回はアンドロジナス・ヒーローであった頃の代表作、「ジギー・スターダスト」にフォーカスを当てたいと思います。



「ジギー・スターダストとスパイダーズ・フロム・マーズの台頭と凋落」と名付けられたこのアルバムは、そのタイトル通り、ジギー・スターダストという主人公を中心としたストーリーを展開していくコンセプト・アルバム。一種のロック・オペラとも言える演劇性の強い、アートフォームとなっております。





ストーリーをダイジェストにすると以下のようになります。



架空の世界。「5年後」に地球が破滅を迎える事がニュースとして流れ、世界は混乱の時代を迎える。荒んだ光景を目の当たりにし、人々は他人に頼る事、「魂の愛」による救済を求めるようになる。異星人である「スターマン」はこの地球の状況を知り、人類の救世のためにロックンロールの「スター」、「ジギー・スターダスト」としてスパイダーズ・フロム・マーズというバックバンドを従えて地球に降り立つ。5年後の滅亡からの精神的解放と救済をロックンロールによって遂行しようともくろみ、大人気となる。救済は結局なかなかうまくいかず、やがて疲弊し年老い「ロックンロールの自殺者」となりそうになる。しかし人々に「どんな精神的に追い詰められた状況でも決してあなたは孤独ではない」という手を差し伸べるメッセージを残し、最後まで救済をしていく決意をしていくのであった。



架空の異星人スーパースター・ジギーの、ロックスターとしての成功と没落を描いた物語と言うわけです。





ストーリーは荒唐無稽というか、今にして思えば似非ヒューマニズム的なファンタジー。ロックという共同幻想論がまだ生きていた時代の名残っぽいこのアイデアも1972年当時としては斬新であったのでしょう。なによりもこのアルバムのコンセプトをツアーという形で昇華していった当時のパフォーマンスは素晴らしいものであったようです。ショウとしての演出にも凝り、山本寛斎等による奇抜な衣装、ジェンダーレスを意識したド派手メイク、(宣伝を意識したのだろうけれど)自身のバイセクシャル発言等々により人気を博し、ジギーという架空のキャラクターはもはやボウイそのものと同一化していったわけです。ボウイの妖艶でジェンダーレスな美しさ、人間離れした=エイリアン美的なルックスはそもそもがそのキャラクターをやらんが為にあったかのようです。



ボウイはよくも悪くもこのカルト的ヒーローを「演じる」「同化する」事がそのアイデンティティとなってしまった感もあります。「演じ・同化する」事はジギーを演じる事を止めた後も長く彼を呪縛していくような気がします。ダイアモンド・ドッグスしかり、ヤング・アメリカンズしかり、ロウしかり。コンセプトは変遷しながらもいずれも完璧なまでに「演じ」「同化する」ため、本人が人間的に何者なのかわからなくなる。それがいかにも「ボウイ的」であるようになってしまいました。(生身のボウイが見られるのは「レッツ・ダンス」のリリースまで待たねばなりません。)そのかわり、圧倒的な説得力をその音楽にもたらす事ができた稀有なミュージシャンだと思います。



このアルバムにあるジギーの音楽は紛れも無くポップで、どれもシングルカットできそうなほどファミリアな魅力にあふれ、良質なエンターティメントである事は間違いありません。ミック・ロンソンのギターもいい感じで鳴っています。グラム・ロックが到達したひとつの高みでありましょう。ただし「グラム」という形態は単純に時代に受け入れやすかったから、という選択に過ぎないでしょう。ボウイは時代が人々が何を欲しているかを察知し、いち早く対応できる嗅覚の鋭さを持っています。それが長く一流でいられる才能の証。別にグラムでなくてもプログレでもクラシックでも、多分ファミリアなものを作る事ができるのだと思います。



架空のロックスターの虚像は、しかしながら永遠ではなく、ボウイ自らの手によって1973年に葬られております。人気絶頂の時に葬ったことは大正解でした。さすがマーケティング的視点を持つボウイならではでは無いでしょうか。大学時代に自分はビデオでこのハマースミスの最終公演を見ました。当時のステージングがいかに演劇的で、歌舞伎やらパントマイムやらいろいろな要素がミックスされたアートであったかがわかる映像で感心しました。DVD出ているようですので、機会があったらまた見たいと思います。最後にこのアルバムのラストナンバーで締めたいと思います。ボウイはまたいずれ記事にします。ベルリンもダンス時代も好きなんで(笑)それでは、また。