ピエロの映画日記


ベルリン、一九一四年十一月。わたしはいまクロポトキン バクーニン メレジコフスキー を読んでいる。国境の前線に二週間いた。
その間ヒューズで最初の戦死者たちを見た。砲撃の跡も生々しいマノンヴィエールの堡塁で、瓦礫のなかにずたずたに引き裂かれた
ラブレーを見かけた。それからこちらへ、ベルリンに向かったのだ。わたしの言うことがわかってもらえるといいのだが。戦争で今
突然現れてきたものは何かというと、それは機械仕掛の全貌であり、悪魔そのものなのだ。理想的な文句はピンで留められた小さな
レッテルにすぎない。最後の地下要塞のなかまで、何もかも一切がぐらついている。
フーゴ・バル『時代からの逃走』






1. フーゴ・バルの略歴

 フーゴ・バルは1886年(明治19年)2月22日、現在のドイツに生まれ、音楽好きで敬虔なカトリック信者の家庭に育った。バル家は決して
裕福ではなかったようで(兄弟がほかに5人もいた)、彼はギムナジウム卒業後、一度大学進学を断念して、皮革工場に就職している。
大学入学のとき、彼は20歳で、5年間大学に在学、ニーチェに傾倒するが、大学を辞め、1910年、ベルリンで演劇学校に入り、
4年ほどの間、ドイツ国内の小劇場で、舞台監督や演出家として活動していた。バルはやがて「第一次世界大戦中ドイツから逃れて
チューリヒのシュピーガルガッセという湖畔に近い古い街の一角に芸術・文学のキャバレー、「カバレー・ヴォルテール」を開き、
いわゆる「ダダ」運動の開祖、その精神的支柱とな」(註)る。






行為のほうが、実験よりもはるかに重要だ。抵抗物を見分けること、それには鋭敏な眼がありさえすればよい。
そのほか、抵抗物に浸透し、それを解消するには、造形力が前提となる。ひとつの問題のほんとうのむつかしさと独特な点は、
最終的な決めてが要求されるところで初めて生じてくる。ダンディは、そのような決めてを一切嫌う。決断を回避しようとする。
ダンディは、自分の弱みを告白するよりは、むしろ強さを野蛮さとしてこきおろすことに興味を覚えるだろう。
フーゴ・バル『時代からの逃走』



ダダ以降のバル

1916年、雑誌『カバレー・ヴォルテール』の発表、音響詩「KARAWANE」「Gadji beri bimba 」を実演しダダとしてのバルの活動は最盛期を迎えたが、
翌1917年(チューリヒ・ダダの実質的な活動の幕開けとなる年にあたるが)バルはツァラたちの過激な活動に付いていけず、また財政的な問題もあり
バルはチューリッヒを去りベルンへと移った。バルはむろんダダの乱痴気騒ぎに失望したのだが、無邪気なニヒリストにはなれず「ダダ運動に訣別した後、
隠者、聖者と噂されながら、禁欲と極貧のうちに、超自然の理性と恩寵を求めてビザンチンのキリスト教研究に没頭」し「人間と動物と植物との
親密な交わりを信じ」ながら、「病のため四十歳余の若さで」(註) 亡くなる。その短い生涯の間、言語とその表現から離れることはなかった。