ピエロの映画日記



「『美談の男―冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』・評」  「図書新聞」書評

尾形誠規 著
『美談の男
――冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』
鉄人社 10.6.1刊 四六判 256頁 本体1400円

 このところ、司法や捜査機関をめぐる情況が喧しい。検察による証拠偽造によって虚構化された村木事件、無罪となった足利事件、それに小沢・検察審査会問題も加えていいかもしれない。いずれにせよ、〈法〉によって裁くことの意味が、明快な軸を喪失してきたことによる頽廃だといっていい。それに、加担するマス・メディアの有様も問題視しなければならないが、そのことは別の機会に譲るとして、そもそも、人が人を裁くこととは何かという正義や倫理的根拠以前の極めて当たり前の問いを、〈法〉にまつわる人たちは、忌避しているとしか思えない。だから、“推定無罪”や“疑わしきは被告人の利益に”といった前提が、無化されていくことになるのだ。
 1966年6月30日、静岡県旧清水市で味噌樽製造会社の専務宅で、一家四人が惨殺され放火されるという事件が起きた。従業員だった元プロボクサーの袴田巌が逮捕され、拘留期限三日前、強引な取調べによって自白し、起訴される。68年9月、袴田は、一貫して無罪を主張するも、静岡地裁で死刑判決が下る。その後、控訴、再審請求をし続けるが、すべて却下され、80年12月、最高裁で、判決訂正申立棄却決定によって死刑確定。現在、静岡地裁に第二次再審請求中である。07年2月、当時の静岡地裁主任裁判官・熊本典道という人物が、「無罪の心証を持ちながら死刑判決文を書いたことを公に」するというセンセーショナルな出来事が起きた。テレビの報道番組でそのことの告白がなされたため、当時、マス・メディアが狂騒的な報道をしたことは、いまや遠い時間のなかに、埋没したかのようだ。本書は、仕事として裁判を傍聴し続けていた著者が、裁判員制度が実施される前だったこともあり、美談の男・熊本典道に関心を持ったことによって編まれたものだ(鉄人社書籍担当編集長でもある著者が自ら取材して出版したということで、あえて編むという表記にした)。取材を続けていくうちに、熊本に対して“美談の男”とは程遠い人物像に見えてくるという、著者の心的断面を、ドキュメンタリー・タッチのように開示していく著者の筆致は、刺激に満ちている。
 「熊本には、通常の裁判官が持ち合わせていない類い稀なる良心があった。ただ、だからこそ、裁判官に向いていなかったとも言える。良い悪いは別にして、クールでビジネスライクに職をこなすことが裁判官に求められているのなら、熊本はそのスキルを持ち合わせていなかった。」「栄光の時代は長くは続かない。いつのころからか指先が震えるようになった。(略)事態はここから怒涛のような展開を見せる。安田火災の顧問弁護士を辞め、事務所を畳み、家族とも離散。そして都落ち――。」「熊本は、最初に話を聞いた際、袴田事件のことを告白する気になったのは、自分の年齢が最高裁判事の定年である70才に近くなってきからだと、ボクに言った。裁判官を無事に務めていたら、自分もその職にあったかもしれない。それを考えると、今こそ全てを明らかにすべきだろうと考えた、と。/違うと思う。実際は、そんなに格好のいいものじゃないはずだ。年齢に関係なく、ここまで落ちたからこそ、元裁判官、熊本典道は世に姿を現したのではないか。」
 著者は、熊本に容赦ない言葉を放つ。そして、不思議なことに、そういう著者の辛辣な解析を率直に容認している熊本の像が、わたしには、浮き上がってくる。しかし、離別した長女の言葉は、もっと苛烈だ。父が「なんでも袴田事件のせいにしたがる」のは、「都合が良すぎる」と断じる。「そんなドラマチックなも」のではないと、「母が別れた後に」言っていた言葉として、「コンプレックスの塊」で、「単なる見栄っ張りで、弱くて、融通もきかない人間」だったというのだ。意にそぐわない判決を出した後、裁判官を辞した袴田事件の元主任裁判官は、ともかくも、著者がいうように、「過ちを認めた、ただその一点だけで熊本は評価されていい」と、わたしも思う。それ以外の、彼の人生の足跡は、誰にでもある個々の生き方と考え方の反映でしかないのだから。




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