喜味こいしさん死去、いとしさんのいる天国へ
83歳で死去した漫才家の喜味こいしさん
「夢路いとし・喜味こいし」の兄弟漫才で親しまれた喜味こいし(きみ・こいし、本名・篠原勲=しのはら・いさお)さんが23日午後1時38分、肺がんのため大阪市北区の病院で死去した。83歳。埼玉県出身。1年前から体調を崩し、入退院を繰り返していた。03年9月に他界した兄・夢路いとしさんとの兄弟漫才は、時代を取り入れたネタと上品な語り口で多くのファンに愛された。
戦前から活躍した上方を代表するベテラン漫才師がこの世を去った。
こいしさんは昨年1月から大阪市北区の病院で入退院を繰り返してきた。抗がん剤による肺がん治療を続け、昨年末にはマネジャーに「元気になったら仕事取ってな」と話していたが、21日に容体が急変。急激に血圧が下がったといい、関係者は「最期は本当に穏やかだった」と話した。夫人、女道楽家で次女の喜味家たまご(55)、マネジャーらにみとられ眠るように息を引きとり、この日夕、遺体は市内の自宅に移された。
最後の仕事となったのは昨年12月2日に収録したNHK「上方演芸ホール―満員御礼!寄席芸ワールド―」。ゲスト出演し落語家の林家染丸(61)とのトークで元気な姿を見せた。同8月には人間国宝の桂米朝(85)と上方演芸の殿堂入りに参加。その際は病院から現場に向かった。
77年に膀胱(ぼうこう)がんを患って人工膀胱保有者となったが復調。だが、03年には腸閉塞(へいそく)で手術をし、数年前には人工膀胱を取り換えた。大好きな酒とたばこは、医師に止められても、やめることはなかった。
兄のいとしさん(享年78)とのしゃべくり漫才で一世を風びした。いとしさんが話を繰り広げつつ放り込む「ボケ」を、こいしさんが楽々と受け止めて「ツッコミ」を入れるスタイル。時にボケ返し、ボケとツッコミを瞬時に入れ替え、自在な呼吸はまさに名人芸。「漫才の教科書」とも評され、中田カウス・ボタンや上岡龍太郎(68)をはじめ、多くの芸人の手本とされた。
03年9月にいとしさんが他界した際には「いとし、こいしの漫才は終わり」と漫才の引退を宣言。以降は1人で講演などの活動を続けてきた。
旅回りの一座に生まれ、いとしさんとともに子供の頃から漫才師として舞台に立った。戦前は吉本興業に所属し、戦後は漫才の父、故秋田実に師事。無駄を省いた話芸で上方演芸界を代表するコンビとなった。故ミヤコ蝶々さんとの芝居では喜劇役者としても活躍した
、
この人は
広島の原爆に
あっている
ここには
かかれてないですがね
がんを繰り返したのは
それもあるかもしれないですね
日曜日の昼にやっていた
ジャストお買い物をすると
それがもらえるという
番組を
よく観ていましたね
ツタヤとかにいくと
この人の漫才なんか
ないですからね
「やすきよ」
ないですからね
大丸ラケット
もちろん
ないです
若手の
売れ線
ばかり
すみでもいいから
おいとけばと
思いますがね
大丸ラケットの
ボクシングねた漫才大好きだったけどな