虐待後遺症というのは 安心感の障害だと思います① | ピコニコラの屋根裏部屋〜植物療法・モノづくり

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虐待後遺症、いじめによる後遺症というのは

それは、安心感の障害だと思うに至りました。
 
心にはなかなか安心感が定着せず、
いつと、ふわふわとした不安感が付き纏います。
 
 
 
例えば
生まれてから5歳になるまでに
10,000回抱っこされて、安心が定着するのだとしたら
私たちには、その経験がありません。
 
 
 
ただただ泣き、何も言わずにただただ抱きしめてもらえる。
この繰り返しは、本当に素晴らしい時間です。
 
この、幼児期の時期は人の安心感や安定感を育てている重要な時間なのだそうです。
 
 
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ただ、泣く、抱きしめてもらえる。
怒られた後に抱きしめてもらえる。
悪いことをした後に叱られたとしても、
そのあとは笑顔で接してもらえる。
怖い思いをした時に話を聞いてもらえる。
怖いものを見た時に抱きしめて安心させてもらえる。
説明して安心させてもらえる。
 
 
 
虐待後遺症に苦しむ人たちは、
これらの経験が極端に少ないのだと思います。
 
 
不安感の中、ただ、放って置かれたり
泣けば怒られ、罵られたり、人格を否定されるなどの、言葉の暴力を受ける場合もあったかと思います。
 
安心感が無いと、
生きるということが、
とても怖く不安で、そして不安定になります。
そこが
虐待による後遺症なのだと
思いました。
 
 
 
 
 
安心感の欠如、それか目には見えない障害の部分なんだと思います。
 
通常、成人するまでに心の中に育つ、安心感や信頼感。
 
それが無いと、人生を歩けなくなってしまいます。
 
前も右も左も上も下も分からなくなり、
まさに真っ暗闇の状態です。
 
 
虐待後遺症というものは、
 
「安心感の無さに苦しむ障害」
 
そんな風に表現出来るのではないかと、
最近は思っています。
 
 
 
私の経験を少し書いてみます。
 
 
安心感のない状態をなんとか生きていくためには、
目には見えない義足をつける必要があったし、杖が必要でした。
 
 
たとえばそれは、家族や公的なサポートだったり。
家族や友人たちからの支えでした。
 
支えと言っても、なにかしてもらうというような事ではなく
傍にいてくれる安心感でした。
 
 
それが杖となり
支えとなり
 
こっちだよ。
大丈夫だよ。と
教えてくれました。
 
 
それは私にとっての
目には見えない杖でした。
 
 
ちょっとした時にかけてもらえる声や
普段通りの当たり前のコミュニケーションが
安心感につながりました。
 
 
信頼できる人との交流は
子供のころに体験することのなかった
マル○や、ハナマル💮をたくさんくれたのだと思います。
自己肯定感に繋がりました。
 
こんな事を思ったんだよ。
あんな事を考えたんだよね。
そして今日はこんな不安があるんだよ。
こんな世界になったらいいのにね。
私が話す言葉、考える事を言い、
それに対して反応がある。
 
そこには体験した事のない安全で健全なごく当たり前のコミュニケーションがありました。
 
 
それが私の杖だったと思います。
 
 
 
私が暗闇を歩くための杖は
人との、なんて事のないコミュニケーションでした。
 
 
 
自分を傷つける人を遠ざけ、安全に過ごすことも必要でした。
 
自分にとって必要のない人とは、はっきりと境界線を引きスルーする力も必要でした。
 
 
これは本当に大事で、
わたしが、安心で安全に過ごすために必要なことだったと思います。
 
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つづきます。
虐待後遺症というのは
安心感の障害だと思います②